おしらせ
平磯無線を創った先輩たちの肉声を公開〜平磯電波観測所50周年記念式典(1965年)の録音より〜 |
国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT、東京都小金井市貫井北町4-2-1)の職員有志らによって構成される「無線通信研究アニバーサリーアマチュア無線記念局リレー実行委員会」は、我が国における無線通信・電波研究の故郷と称される、逓信省電気試験所平磯出張所(現・NICT平磯太陽観測施設、茨城県ひたちなか市)の開設100周年などを記念するアマチュア無線局8N100ICTを、1年間に渡り運用してきました。2015年11月30日をもって同記念局を終了するに当たり、平磯太陽観測施設に保存されていた、1965年(昭和40年)開催の同施設50周年記念式典の録音を公開いたします。50年前には健在だった無線電波技術の先達者たちのスピーチは、開設100年を迎えた今日でも我々の心に響くものがあります。 |
主催者代表 上田弘之(1965年式典当時は郵政省電波研究所所長) 上田氏は、陸軍の技師を経て、陸軍省、海軍省、逓信省がそれぞれ独立に進めていた電波伝搬研究を戦時体制下において一本化するために文部省に1942年(昭和17年)に設立された「電波物理研究所」に移り、戦後は同研究所の後身である電波監理委員会中央電波観測所の所長を経て、1952年に発足した郵政省電波研究所の所長、および郵政省電波監理局の局長を歴任しました。在任中は、電波研による南極観測への参画や宇宙通信研究の立ち上げなどに尽くしました。 | |
第2代所長 丸毛登 丸毛氏は、平磯出張所が開設される以前から、逓信省電気試験所第4部(無線電信電話)の鳥潟右一部長の片腕として、世界初の実用無線電話(TYK式無線電話)の実用化を推進したほか、鳥潟部長に同行して、平磯出張所の場所の選定と地元との交渉に立ち会いました。平磯出張所長に就任後は、同所の初期の大成果とされる、1924年(大正13年)の米国ラジオ放送(KGO)の受信成功(日米間初の無線電話)などを果たしました。平磯出張所長を退任後は、大阪放送局(JOBK)の技師長、日本放送協会 放送技術研究所第2部長、日本ビクター(株)技師長などを歴任し、我が国のラジオ・テレビ技術の発展に尽くしました。 | |
第3代所長 高岸栄次郎 高岸氏は、丸毛氏と共に、1924年(大正13年)の米国ラジオ放送(KGO)の受信成功(日米間初の無線電話)などを果たしました。大正末から昭和初期にかけて、黎明期だった短波通信技術の研究に注力し、短波無線実験局JHBBを開設して、世界の無線家にHIRAISOの名を轟かせました。また当時まだ非合法だったアマチュア無線家たちに、雑誌「無線と実験」への寄稿などでエールを送っています。その後、2社合併により発足して間もない安立電気(現・アンリツ)に移り、同社の初代技師長になりました。 | |
第4代所長 難波捷吾 難波氏は、無線通信技術の開発拠点だった平磯出張所を、電波伝搬の研究観測拠点に衣替えする大きな転換を果たし、今日の宇宙天気予報業務につながる平磯の電波観測所としての長い歴史の礎を築きました。平磯出張所長を退任後は、国際電気通信(株)の研究所長となり、終戦直後の同社の組織変遷を経て、国際電信電話(株)(現・KDDI)の研究部長、初代研究所長及び取締役を歴任しました。 | |
元技手 磯英治 磯氏は、平磯出張所において高岸所長の片腕として、黎明期の短波アンテナの研究を行いました。難波所長の下でも短波による方向探知の研究などに従事していましたが、東京高等工業学校(現・東工大)の先輩だった高岸前所長に誘われて、安立電気(現・アンリツ)に移り、同社の戦前戦後の困難な時期を切り盛りして、社長を歴任しました。平磯出張所に在職中の若き日の磯氏のヤンチャぶりは、スピーチからも伝わってきます。 | |
元技官 大林辰蔵 大林氏は、戦後の平磯電波観測所において、電離層および電波伝搬の研究に従事していました。退職後は京都大学、東京大学、文部省宇宙科学研究所の教授を歴任し、国産ロケット及び人工衛星の開発と打ち上げに尽力しました。糸川教授と一緒に、秋田県の道川海岸での電離層観測ロケット打ち上げに参画し、打ち上げに失敗したロケットが墜落して火の海になった瞬間は、平磯電波観測所にも電話中継されていて、その時に中継された同氏の叫び声は、平磯で語り草になっていたそうです。この事故を一つのきっかけとして、ロケット発射場が秋田から鹿児島の内之浦に移転することになりました。 |
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