※本原稿は、独立行政法人情報通信研究機構(NICT)により2015年3月に刊行予定の、平磯100周年記念誌のために執筆した原稿を、一部編集したものです。[2015年2月2日改訂]

平磯無線100年の前半史  〜アマチュア無線家の視点から〜

 

滝澤 修 (JF3CGN

 

筆者(1987年、新人研修にて)

1.  はじめに

 

明治末期から昭和初期にかけて、無線通信が黎明期から実用期に向かうころ、逓信省や軍が運営する無線局が全国各地に開局した。落石、磐城、銚子、船橋、検見川、岩槻、依佐美、、、無線史に刻まれた局名たち。そのいずれもが記念碑だけを遺して歴史の彼方に消え去った。ひとり平磯だけが、100年前と同じ場所で、100年前と同じ無線・電波の研究観測業務を、連綿と続けている。気がつくと、平磯は現役のまま近代遺産級の存在になっていた。

現在の平磯には、昔を偲ばせる遺物は何もない。大小3つのパラボラアンテナが、日の出から日没まで、電波を乱す源である太陽を追いかけ、宇宙天気予報のためのデータを発し続けている。電力・デバイス・通信の一大試験研究機関であった逓信省電気試験所の一拠点として生まれ、無線・電波の分野の中でテーマをシフトしながら、今日まで最先端を走り続けている平磯。自らが歴史遺産になるつもりなどは無いようだ。だからこそ、ただ一人、現役で100歳の誕生日を迎えることができたのではないだろうか。

筆者は1987年(昭和62)に、郵政省電波研究所(電波研、RRL)の“最後の新入所員” の一人として入所した。翌年4月に電波研は通信総合研究所(通総研、CRL)に改称したからである。平磯での勤務経験は一度も無い身であるにもかかわらず、平磯100周年事業のお手伝いを今回しているのは、趣味のアマチュア無線の関係で、大正から昭和初期の短波無線の黎明期において、平磯が果たした役割の大きさに関心を持ったことがきっかけである。

今回、NICT図書室で調査してわかったこととして、これまで電波研・通総研の各支所・観測所の節目の年には各支所・観測所ごとの個別の記念誌が出版されてきたにもかかわらず、平磯の記念誌は全く見当たらない。平磯では50周年及び77周年に際して記念行事が執り行われたが[文献1]、図書室に収蔵するような記念誌は出版されなかったようである。そこで筆者は、今回の平磯100周年に当たり、“平磯単独の年史”と言えるものをまとめておきたいと考えた。

但し電波研時代以降の平磯の活動については、散在しているとはいえ、電波研・通総研の周年誌に採録されている年史および勤務経験者による実体験に基づく回想録がカバーしており、文献記録に頼るしかない筆者がそれらを後追い・再録する必要性は薄いと考えた。そこで本稿では、1915年(大正41月に逓信省電気試験所平磯分室として発足した平磯の歴史のうち、電波研・通総研の周年誌では十分にカバーしきれていないと思われる“先史時代”、すなわち戦前の逓信省電気試験所の時代に絞って、前半史らしきものを書いてみることにした。後半史については、元平磯支所長の丸橋克英氏が執筆されることになっている。

本稿をまとめるに当たり、最も参考になったのは、1972年(昭和47)に平磯町によって刊行された「平磯町65年史」の中で、元平磯出張所に勤務していた横山浩氏が寄稿した章であった[文献2]。それと、平磯に残されていた写真アルバムのスキャン版(本稿では「平磯アルバム」と呼ぶ)は本稿の補強に役立った。

 

2.  逓信省電気試験所平磯分室の誕生

 

NICTの母体の一つである電波研は、逓信省電気試験所(以下「電試」と呼ぶ)と文部省電波物理研究所が行っていた研究業務、及び逓信省が行っていた標準電波発射業務と型式検定業務に、その源流を持つ。

電試は、電波研のほか、後の電総研(現・産総研)、NTT通研、戦後に合流した国際電気通信()技術研究所の後身であるKDD研究所などの研究組織群にとっての共通のルーツであり、我が国の通信・エレクトロニクス系の公的研究機関のほとんどすべての源流になっていると言っていい巨大機関であった。それぞれの組織が編纂している年史の多くは、電試の時代から書き始められている。

1891年(明治24)に創立した電試は、1896年(明治29)に我が国で最初に無線通信(電信)の研究に着手したことになっている[文献3]。続いて無線通信技術の重要性にいち早く気づいた海軍も研究を始め、1904年(明治37)に勃発した日露戦争においては、日本海海戦において無線電信が勝敗を決したと言われている。

無線通信の研究は、当初は東京の逓信省内にあった電試本所において進められていたが、大正時代に入り、アンテナを使った実験をするにはスペースが狭く、また近所の無線電信所からの混信が問題になり始め、大電力無線電信の研究を進めるための広い土地が必要になった。検討の結果、太平洋に面していて北米、ハワイ、北米航路の船舶との無線通信実験に適していた茨城県の海岸である平磯が選ばれ、1915年(大正41月に分室が開設された。開設に当たり、地元から多大な支援を受け、敷地面積24717歩(約24,552u)のうち396歩(約3,888u)は平磯町から寄附されたとの記録が残っている[文献4]。平磯分室と同時に、那珂川の南側にも磯浜分室(旧磯浜町、現大洗町)が開設された。但し磯浜分室の位置は、現在、NICT大洗テストフィールドが置かれている場所とは異なる[1]

 


逓信省電気試験所本所(東京市品川区五反田5丁目)

1941年(昭和16)の創立50周年式典当時の写真。

(出典:平磯アルバム)

発足当初は東京市京橋区の逓信省内にあった電試の本所は、1923年(大正1291日の関東大震災で壊滅的な被害(火災)を受けた。そのため、鳥潟右一氏が電気試験所長の時代(在職中の19236月逝去)に電信電話拡張計画に伴う試験設備の増設のためにたまたま敷地を確保していた大崎(五反田)に移転した。写真の建物は、1948年(昭和23)に電試が商工省電気試験所(後の電総研)と逓信省電気通信研究所(後の電波研・NTT通研・KDD研)に分割された際に、電気通信研究所のほうに引き継がれ、商工省電気試験所は永田町に移転した。電気通信研究所は、1949年(昭和24)に逓信省が郵政省と電気通信省(後の電電公社)に分割されて後者に所属し、後の電波研部分を電波庁電波部に移管した直後の1950年(昭和25)に、写真の建物から武蔵野市内の旧・中島飛行機工場跡地に移転した。写真の建物の跡地は現在、NTT東日本関東病院(旧・関東逓信病院)になっている。

電試の英語名Electrotechnical LaboratoryETL)は、商工省電気試験所に引き継がれ、1970年(昭和45)に電子技術総合研究所(電総研)に改称されてからも英語名は継承され、2001(平成13)に産総研に統合されるまで使用されていた。

 

 

1915年(大正4)開設当時の平磯分室敷地図

(出典:大正3年度電気試験所事務報告)

2014年(平成26)現在の平磯太陽観測施設敷地図

(出典:NICT財務部作成・建物平面図)

 

平磯が開設された当時の電試の所長は、創立以来20年以上にわたって在任した浅野応輔初代所長から交代したばかりの利根川守三郎氏(ノーベル賞受賞者利根川進氏の祖父。電子情報通信学会初代会長)、無線電信電話を扱う第4部の部長は、TYK式無線電話機[2]の発明者の筆頭である鳥潟右一氏であった。大正3年度電試事務報告の総説において、利根川所長は平磯について以下のように述べている[文献4]

 

本年度に於て開設したる重なる新設備は電気局大阪出張所並に平磯磯浜の両試験室にして前者は関西方面に於ける電気計器検定事務の敏活を計らむが為めに又後者は無線通信試験に於て他の障害を避けんが為め何れも前年度来工事に着手したるものにして本年度に於て新に事務を開始したるものなり。

 

同報告の第4部の章において、鳥潟部長は平磯・磯浜両分室の施設の詳細を紹介している。

平磯が開設された1915年(大正4)は、戦後に電波3法(電波法、放送法ほか)に代わるまで使用されることになる「無線電信法」が制定された年であり、無線通信が飛躍的に普及し始めた年である。また、有線通信が官設に限定されていたのに対して、無線通信は同年制定の「私設無線電信規則」に基づき、船舶無線の普及促進[3]を念頭に私設が可能とされた。このことは、電試に対して無線装置の試験依頼の激増を予測させたことであり、無線電信電話の部署の充実を図る必要に迫られたことも、平磯設置の背景にあるものと思われる。

このような背景から設置された平磯出張所は、無線電信電話の研究専門に開設された、我が国最初の研究拠点とされる。元郵政省電波研究所長の若井登氏の言葉を借りれば、平磯は「電波研究のメッカ」、「電波研究の本当の意味の発祥の地と言っていい」ということになる[文献5]

大正6年度までの電試事務報告では、平磯での業務は本所第4部の章の中で、「平磯及磯浜に於て実験」の付記付きで含められていたが、大正7年度版から「平磯出張所」の章が別立てで設けられている。また、NICT図書室に残る電試研究報告の表紙に押されている蔵書印は、1917年(大正69月発行分までは「逓信省電気局電気試験所平磯分室」、1918年(大正79月発行分からは「電気試験所平磯出張所」となっている。以上のことから、1915年(大正4)の開設当時は「平磯分室」と称され、1918年(大正7年)から「平磯出張所」に格上げされたものと推察される[4]。(但し本稿では「平磯出張所」の表記で統一している)

平磯出張所が開設された当時の電試の組織構成を以下に示す。地方拠点としては、1914年(大正3)に開設された大阪出張所に次いで2番目に早かった。

ž 1単本位、検定、試験

ž 2電話、電信

ž 3機械、電力、化学、設計

ž 4無線電信、無線電話

ž 大阪出張所試験、検定

ž 平磯出張所無線電信電話

 

3.  平磯出張所時代の歴代所長と平磯100年の組織変遷

 

電波研になる以前の歴代の平磯出張所長(所長心得を含む)は、以下の通りである[文献1ほか]

 

所長名

在任期間

平磯出張所長退任後の主な経歴

北村政次郎

1915年(大正41月〜1920年(大正93

東京放送局(JOAK)技師長

丸毛登

1920年(大正93月〜1925年(大正142

日本放送協会、日本ビクター技術部長

高岸栄次郎

1925年(大正142月〜1929年(昭和49

安立電気(株)技師長

難波捷吾

1929年(昭和49月〜1932年(昭和74

KDD取締役

中井友三

1932年(昭和74月〜1935年(昭和105

東北帝国大学助教授

前田憲一

1935年(昭和105月〜1941年(昭和163

文部省電波物理研究所長、京大教授

河野哲夫[5]

1941年(昭和163月〜1948年(昭和238

郵政省電波研究所長

塚田壮平

1948年(昭和238月〜1953年(昭和286

郵政省電波監理局

 

前田憲一氏の晩年の映像

1983年(昭和581015日 京都大学工学部電気系教室主催の講演会にて、筆者撮影

初代の北村出張所長は、TYK式無線電話機の開発者の一人で、電試を退任後、1925年(大正14)に開局した日本最初のラジオ放送局(東京放送局JOAK)の初代技師長として、ラジオ放送の開始と普及に尽力した。高岸出張所長は退任後の1931年(昭和6)に、2社の合併により発足したばかりの安立電気(現・アンリツ)の初代研究課長となり、東京高工時代の同級生だった高柳健次郎氏の関係で、日本最初のテレビジョン送信機を同社が開発し浜松高工に納品する役割を果たした[文献6]。難波出張所長は退任後、発足間もない国策会社の国際電気通信()に移り、戦後に同社がGHQの命令による逓信省への統合を経て再び特殊会社の国際電電(現・KDDI)として分離した後に、同社の取締役を歴任した。中井出張所長は、東北帝国大学に移った後、黎明期だった単一側帯波通信(SSB)の研究を行っていた[文献7]。前田出張所長は退任後、電試の技師の身分のままで、電波研のもう一つの母体となる文部省電波物理研究所の研究官を兼務し[文献8]、戦後に同研究所長を歴任した。

平磯の100年間の組織の位置づけの変遷を詳しく整理すると、以下の通りとなる。電波研の発足時に引き継がれた施設のほとんどが文部省電波物理研究所に由来していたのに対して、平磯だけが逓信省電気試験所に由来していた[6]

 

l   逓信省電気試験所平磯分室 1915年(大正4)〜1918年(大正7

l   逓信省電気試験所平磯出張所1918年(大正7)〜1948年(昭和23[7]

l   逓信省電気通信研究所平磯出張所1948年(昭和23)〜1949年(昭和24

l   電気通信省電気通信研究所平磯電波観測所1949年(昭和24

l   電気通信省電波庁電波部対流圏課平磯分室1949年(昭和24)〜1950年(昭和25

l   電波監理委員会平磯電波観測所1950年(昭和25)〜1952年(昭和27

l   郵政省電波研究所平磯電波観測所1952年(昭和27)〜1966年(昭和41

l   郵政省電波研究所平磯支所1966年(昭和41)〜1988年(昭和63

l   郵政省通信総合研究所平磯支所1988年(昭和63)〜1989年(平成元)

l   郵政省通信総合研究所関東支所平磯宇宙環境センター1989年(平成元)〜2001年(平成13

l   総務省通信総合研究所関東支所平磯宇宙環境センター2001年(平成13

【独法第1期】

l   独立行政法人通信総合研究所電磁波計測部門平磯太陽観測センター2001年(平成13)〜2004年(平成16

l   独立行政法人情報通信研究機構 電磁波計測部門 平磯太陽観測センター2004年(平成16)〜2006年(平成18

【独法第2期】

l   独立行政法人情報通信研究機構 第3研究部門 電磁波計測研究センター 宇宙環境計測グループ 平磯太陽観測センター2006年(平成18)〜2009年(平成21

l   独立行政法人情報通信研究機構 第3研究部門 電磁波計測研究センター 宇宙環境計測グループ 平磯太陽観測施設2009年(平成21)〜2011年(平成23

【独法第3期】

l   独立行政法人情報通信研究機構 電磁波計測研究所 宇宙環境インフォマティクス研究室平磯太陽観測施設2011年(平成23)〜現在

 

組織としての平磯の位置づけが最も高かったのは、戦後の混乱期にGHQの勧告により設置された、電波監理のための行政委員会である電波監理委員会(米国のFCCに相当)に付属する電波観測所になった頃であったと思われる。戦前の文部省電波物理研究所であり、後に郵政省電波研究所の本所となる国分寺の部署が「中央電波観測所」として電波監理委員会に付属した際に、それと並立する位置づけで「平磯電波観測所」となった。

1989年(平成元)に関西支所(神戸)が新設されたことに伴って鹿島と平磯が統合して関東支所になった頃から、平磯の組織上の位置づけは次第に下がっていき、末期はグループ(研究室)の下に置かれたセンターとなり、独法第2期の中盤の2009年(平成21)に太陽観測施設となって、組織としては消滅した。

 

4.  平磯出張所の研究テーマの変遷

 

平磯出張所が取り組んだ研究テーマの変遷を大局的に眺めると、概ね以下のような流れになる。

 

はじめは、火花式送信機と鉱石検波器による感度の低い無線装置しかなかったため、到達距離を少しでも伸ばすために、アンテナやアースを性能向上させる研究が行われた。これは広い敷地が必要な、平磯ならではの研究であった。

やがて、新しい通信デバイスである真空管(当時の呼称は「真空球」)が誕生したため、真空管そのもののさまざまな性質を検証したり、真空管を使った最適な電路(回路)を探究したりといった、真空管応用技術の向上を日本で先導する研究が行われた。

平磯での真空管応用技術の成果などによって無線装置の実用化が加速された結果、無線電話を大衆向けに応用した新しいメディアであるラジオ放送(中波)が始まることになり、中波ラジオ放送の開始に不可欠な聴取規則制定のための準備・調査研究が行われた。到達距離、混信状態の調査、外国製受信機の比較試験などを行い、その成果を踏まえて、1925年(大正14)322日に東京で中波ラジオ(JOAK)の本放送が始まった。

この頃までは無線通信は長波と中波が中心であったが、短波は小電力で非常に遠距離の通信ができることが、米国を中心とするアマチュア無線家らによって知られるようになってきた。そのため平磯でも無線電話実験局JHBBを開設して、短波通信の研究が始められた。

ところが短波は伝搬が極めて変動する性質があるため、無線装置の研究だけでなく、短波伝搬の観測・研究に注力する必要が出てきた。この頃には電離層の存在が明らかになってきた。

短波伝搬の観測と理論をベースに、季節・時刻・波長ごとの「世界電離図」が平磯において作成され、短波の電界強度を実用的な精度で予測できるようにしたのみならず、その成果が長波、中波にも拡張された。

 

短波伝搬の計算法を改良し、日本最初の入射角測定が行われ、1932年(昭和7)には電離層の直接観測が始まった

 

世界電離図の作成のために、電波の到来方向を正確に把握するための装置が研究開発された。その装置が、航海・航空用の方向探知器として実用化されていった。

 

電離層観測装置の進歩や自動化により、電離層の微細機構や伝搬機構が解明され、日蝕観測や黒点等の観測を通じて太陽の影響が明らかにされてきた。

 

方向探知の技術は、無線標識(ラジオビーコン)の研究に発展した。また電波到来方向をブラウン管上に表示する装置が開発され、レーダー技術につながっていった。

 

地上数km低空(対流圏)の電波反射層の存在が明らかになり、またより高い周波数(超短波)の伝搬特性の研究が本格化し、東京世田谷からのテレビジョン試験放送電波(45MHz)の電界強度変化を平磯で観測した。

 

戦時下には、レーダーの能率を上げるための設置条件の研究や、短波レーダーによる見通し外の艦船・航空機の探知の研究が行われた。

 

戦後、その短波レーダーを活用した常時測定により、大地の後方散乱の影響を明らかにした。直視型入射角測定器や到来波の全方向記録装置の開発など、方向探知技術が再び電波伝搬研究に合流した。

ž 郵政省電波研究所の発足(1952年)の前後から、電離層観測のみならず、電離層の異常により短波通信が伝搬障害を受ける可能性を前もって予測し、通報して事前対策に資する電波警報の業務に、力点が置かれるようになった。電波警報は、電波擾乱予報を経て、宇宙天気予報へと発展していった。

ž 電波警報の精度向上のため、電波通信障害を突発的に起こす地磁気嵐やデリンジャー現象等の主な原因となる太陽活動の観測が、研究業務の中心になっていった。

 

こうして平磯出張所のミッションは、草創期の無線装置の研究開発から、電波伝搬研究、電波警報、そして太陽観測へと、前後が関連しながらシームレスにシフトしていった。戦前から我が国の電離層と電波伝搬の研究は高く評価されていたが、終戦直後のGHQは日本の電離層・電波伝搬の研究レベルの高さに驚嘆して、日本の学術全体に対する態度が大きく変わったと言われており[文献10]、平磯出張所がその中心的な寄与をしていた。

 

5.  初期の平磯出張所における無線通信の研究

 

本章では、平磯出張所が取り組んだ研究テーマの中から、これまでNICTの文献ではあまり取り上げられたことが無く、かつ筆者の個人的興味の方向でもある、初期の無線通信研究に関するトピックスについて、少し詳しく述べる。

 

(1) 真空管応用技術の先導研究[文献11]

平磯出張所が開設された頃、欧米での真空管の開発に触発されて、電試第4部は高性能の真空ポンプを配備して真空管の自作研究に取りかかり、1916年(大正5)に我が国で初めて硬真空管(真空度が高くプレートに高電圧をかけて発振・送信用途に使用が可能)の試作に成功した。さっそく試作真空管を平磯に持参して受信機を製作し、ハワイのカフク局とサンフランシスコのマーシャル局(いずれも電信)を受信する成果を挙げた。1917年(大正64月には送信管の試作にも成功したため、平磯で送信機を製作し、磯浜分室との間での高音質な無線電話試験に成功した。その成果を踏まえ、三重県の鳥羽―神島間で1914年(大正3)から実用化されていたTYK式無線電話機を真空管方式に改修し、1917年(大正6512日から実用に供した。これが公衆通信としての真空管無線電話の初の実用化となった。

 

(2) 同時送受話無線電話の開発[文献11]

無線通信において同時通信(全二重通信)を行うには、送信電波が受信に干渉を与えないように、無線電信の場合は送信局と受信局を地理的に離す方法がとられていたが、無線電話の場合はその方法が採れなかったため、TYK式無線電話機を含め当時はプレストーク(半二重通信)であった。真空管無線電話の実用化によって干渉を回避できる可能性が出てきたため、無線電話においても同時通信が試みられた。平磯出張所では、送受信に別の周波数を用い、単一の送受共用空中線と接地間に送信用と受信用の2つの分岐回路を設け、空中線〜送信分岐を送信電波に同調し、送信空中線回路に形成される定在波電圧の波節に受信分岐を接続して、回路素子の調整により受信電波を受けるようにする方式を開発した。この方式を平磯と磯浜の間で試み、成功したので、直ちに鳥羽―神島間も同時送受無線電話方式に切り替え、船に設置した装置との間で通話試験を行い、最大32マイルの距離での通話に成功した(19177月)。この同時送受話無線電話は、海外における研究よりも3年ほど進んでいたとされる。

 

(3) 有線無線両電話接続法の開発[文献11]

無線による同時送受話が可能になったことで、懸案だった無線電話と有線電話との接続も可能になった。電試本所において逓信省構内電話に接続して実験を行い、1917年(大正61020日に報道発表が行われ、内外の反響を呼んだという。さらに同年11月には、品川沖の商船学校練習船に設置した無線電話装置と、電試本所内に仮設した有線無線両電話接続交換装置を通じて東京市内の有線電話加入者との間で、通話試験が行われ、成功した。同実験は、上野で開催されていた博覧会においても公開された。

 

(4) 搬送電話の研究[文献11][文献2]

1本の電話回線に複数の信号を異なった周波数の搬送波に乗せて同時に送る搬送電話方式は、伝送路を効率的に利用する多重通信技術として、1910年にスクワイアーにより提唱された。電試では1917年(大正6)末に鳥潟第4部長の指揮により、「無線式有線多重電信電話」という名称で、第4部と平磯出張所とが共同で研究を進めた。その結果、世界に先駆けて送電線への応用を図り、発電所と変電所の間の連絡用に供された。

日本の十大発明家の一人であり、後に東京電機大学の初代学長になる丹羽保次郎氏は、この頃に電試に入所している。1955年(昭和30)に鳥潟博士33回忌回想録刊行会が出版した「鳥潟博士と無線研究60年の歩み」の中で、丹羽氏は次のように回想している。

 

大正5年の7月に大学を卒業した私は、すぐ電気試験所に奉職した。利根川守三郎博士が所長で、1部(計測標準)、2部(通信)、3部(電力)、4部(無線)とに分れ、第4部長が鳥潟博士であった。横山英太郎さんが外国留学中で、北村政次郎さんが平磯出張所長のときであった。私は第3部に入り部長は広部徳三郎博士であった。しかし電気試験所も、まだ小さくて人員も少かったので、全員で話し合う機会はたびたびあった。そのころの4部の研究で今もはっきり憶えているのは、いまの搬送式電話である。無線式有線電話という妙な名称をつけていた。 Carrier Telephonyという字がまだはやらなくて Wired Wireless といっていたので、これを訳したのであろう。もう1つは同時送受話と有線無線連絡である。いまでは何でもないことが、真空管が漸く実用になりかけたそのころでは、大きな問題であったのである。なにしろ前年学生時代に夏期帰郷中、近くの鳥羽―神島間で実施せられているTYK式電話を見学に行ったときも、送話器の前で大きな声でどなって一々「送信終り」とやっていたころであるから、家庭の電話から船の上の人と同時送受話ができるとなると、大きな驚異にちがいない。

 

米国KGO局放送電波受信風景

1924年(大正138月 出典:平磯アルバム

左: 高岸栄次郎(第3代所長)、右:丸毛登(第2代所長)

(5) 中波ラジオ放送開始に向けた準備研究[文献2]

ラジオ本放送開始に向けた諸調査研究が、1924年(大正13)に集中的に実施された。通達距離混信状態の調査として、電界強度及びアンテナ輻射高の定量的測定、再生受信機の妨害程度、混信遮蔽の研究、外国製受信機の比較試験などが行われた。日本最初のスーパーヘテロダイン受信機の試作も、この頃に平磯出張所で行われた。

1924年(大正138月に、我が国における無線電話の最長距離記録となる米国のラジオ局KGO(波長312m=中波962kHz)の受信に成功した[文献12](写真)。同年11月には、受信の見学のために、文部省学術研究会議電波研究委員会の長岡半太郎博士ら一行が、平磯を訪問している。

これらの成果を踏まえて、1925年(大正14322日に東京で我が国初の中波ラジオ(東京放送局JOAK)の本放送が始まった。その後も、同年5月には大阪放送局JOBK6月には名古屋放送局JOCKの開局前の試験放送を平磯で受信し評価した。各放送局の高調波の輻射状況を平磯で観測した結果、JOAKは第5高調波まで、JOCKは第7高調波まで受信(ビート入感)できたとあり[文献13]、当時のラジオ放送局の送信機の性能がうかがえる。

 

(6) 短波通信の研究

1921年頃に、米国のアマチュア無線家らによって、短波帯を使えば小電力で超長距離通信が可能なことが発見され、長中波帯の大電力無線局の実用化に専念していた世界の専門家に大きな衝撃を与えた。その発見を受けて平磯出張所でも、中波ラジオの調査研究が一段落した後は、短波帯の研究に重点が移された。短波の電波を発射し、各地の試験電波を各季節にわたって連続的に受信する研究が、平磯を含む全世界で行われた。

平磯出張所では、192526年(大正1415)にかけて、下記の短波帯受信実験が行われた[文献13]

 

日付(192526年)

相手方

波長(周波数)

結果

6175時から3日間

ドイツ・ナウエン局(POX

26m及び40m11.5及び7.5MHz

40mは不感、20m09時頃まで入感。

7117

米国ピッツバーグKDKA

63.5m(4.72MHz)

不感

7256時〜16

ドイツPOF

27m11.1MHz

67時は受信容易、8時以降は不感。

121716時〜181510

242018m (12.51516.7MHz)

24mが最も強力で2時頃まで入感

不明(終日傍受試験)

ドイツPOF

20m (15MHz)

POWが最も強力に入感。

ドイツPOW

25m12MHz

オランダPXLL

32m 9.4MHz

32021

米国ボリナス6XI

39m7.7MHz

711時頃を除き強力に入感。

3月下旬

春洋丸(太平洋)

不明

距離の増減に対する感度の変化を測定。

 

上記の受信実験に関して、「無線と実験」19258月号には、「茨城県名所のひとつ 平磯電気試験所を見る」として、1925年(大正14625日に平磯出張所を取材した記者の記事が掲載されており、その中で実験担当者の言として、米国のアマチュア無線局などを沢山受信したが、いちいち記録しなかったとある[文献14]

また、7月から8月にかけて3回に渡って実施された、米国のアマチュア無線家団体ARRLAmateur Radio Relay League)主催のコンテスト(Mid Summer test)に参加した[文献13]。下表に示す通り、結果的に受信は不成功であったが、送信試験も行ったと記録にある[文献13]。この受信試験の詳細については、「ラヂオの日本」(日本ラヂオ協会)1935年(昭和106月号, p.44に、「短波の昔ばなし()」(畠山孝吉)として掲載されている[文献14]。波長5mVHF 5060MHz帯)で米国からの電波を受信しようと試みたことから、当時はまだ短波帯の性質がよくわかっておらず、波長が短いほど小電力で遠くまで届くと単純に考えられていたことがうかがえる。

 

日付(1925年)

時間(日本時間)

波長(周波数)

結果

71819

0時〜10

3842m (7.17.9MHz)

準備間に合わず

72526

0時〜10

1921m(約14.315.8MHz

受信不成功

812

0時〜10

4.85.3m (約56.662.5MHz

受信不成功

 

同じ時期に、短波実験局が平磯出張所に開設され(無線電信コールサイン「JHBB」、無線電話呼出名称「平磯試験所」)[文献26]1925年(大正14119日から波長25m、空中線電力300Wで無線電話を送信し、11月下旬まで関東各地に可搬型受信機を運んで短距離伝搬の測定が行われた。受信の結果は、「ラヂオの日本」(日本ラヂオ協会)19265月号「短距離に於ける短電波受信試験」(横山英太郎)、実施者の回想は、「ラヂオの日本」(日本ラヂオ協会)19357月号「短波の昔ばなし()」(畠山孝吉)に掲載されている[文献14]JHBBは、逓信官吏練習所無線実験室(コールサインJ1PP)に次いで、我が国で2番目に古い官設の短波帯無線電話実験局とされている[文献14]

 

1925年(大正14)当時の逓信省関係の組織図

出典:[文献14]

 

電試は、本所(JHAB)、平磯(JHBB)、磯浜(JHCB)の3つの無線局を持っていた。

平磯出張所の短波無線実験局JHBB

出典:平磯アルバム

 

写真は1925年頃の研究開発途中のバラックセットで、英国マルコーニ・オスラム社製MT4真空管2本による発振回路が中央に置かれている。1928年の完成時点では、同社製MT7A2本用いた発振機に、整流機、平滑機、変調機を加えた4台のラックで構成されていた。[文献28]

JHBBの送話室

出典:平磯アルバム

 

米国ウェスタン・エレクトリック社製のダブルボタンマイクロホンが使われており、無線電話の実験局であったことを物語る写真。[文献29]

コールサインプレートに掲げられている“JAPANUJO”は、エスペラント語で日本の意。国際共通語として作られたエスペラント語は1920年代に世界的に流行し、例えば1926年創立の日本アマチュア無線連盟(JARL:

Japan Amateur Radio League)も創立時はJAPANA AMATORA RADIO LIGOとエスペラント語表記であった。

 

 

JHBB1926年(大正15217日夜から25日午前まで、伝搬に関して波長と昼夜四季との関係を定量的に測定するための送信が202530406080mの波長で行われ、千葉県銚子から中国大連まで約10箇所において受信試験が行われた[文献13]

磯浜分室の無線局JHCB

平磯の元所長室の書棚に保管されていた「QSLカード発受簿」と書かれた綴りには、1926年(大正156月から1928年(昭和3)にかけて、JHBBと交信あるいは傍受した海外のアマチュア無線家からのQSLカード及び受信レポートが80通ほど残されている。これらの中には、東京逓信局岩槻無線所のJ1AAや、非合法時代のアマチュア無線家J3AA(笠原功一氏)及び同氏による合法私設実験局JXIXから回送されてきたというメモ書きの付いた海外のカードもあり、官設局JHBBと国内のアマチュア無線家との関係が伺えて興味深い。

なお平磯アルバムには、磯浜分室の無線局(JHCB)の写真も収録されている(写真)。電波研OBが付記した調査メモによれば、写っている人物は田中礒一氏とされている。但し同氏が平磯に在籍していたのは1936年(昭和11)から1941年(昭和16)であるのに対し、JHCBのコールサインは1927年(昭和2)のワシントン会議の決定(コールサインにエリア番号を入れる)に基づいてJ1AHに変更されたため、時期に不整合がある。写真の人物が田中氏以外なのか、あるいは既に無効になっていたJHCBのコールサインプレートが昭和10年代まで掲げられたままになっていたのか、今となっては判然としない。

 

 

6.無線装置から電波伝搬、そして戦時研究へ [文献2]

 

昭和初期までの平磯では、これまで述べた通り無線の送信機及び受信機の研究開発に主力が注がれていたが、新開拓の短波通信を実用化するためには、変動が激しい短波伝搬の物理現象をまず探究することが必要になってきた。また昭和時代に入ると、国内メーカーの技術力が向上して、国が外国技術を率先して輸入・試験する必要性が次第に薄れてきたものと推察される。そのため1929年(昭和4)頃から平磯では、短波の電界強度測定の研究に重心が移されてきた。また英国のアップルトンにより電離層(E層、F層)の存在が実証されたことから、平磯では上空大気の電離状態の理論的算出と、世界から届く短波の測定による算出方法の改良が進められた。日本最初の入射角測定の実施を経て、電離層の直接観測が1932年(昭和7)に平磯で開始され、その後の観測装置の改良により、電離層の微細構造や伝搬機構の解明、電波伝搬に対する太陽の影響の研究が進められた。

さらに平磯では、超短波の伝搬についても、距離・地形による影響の調査が進められ、見通し外の伝搬現象などに先駆的な業績を残している。また、地上数kmの低高度(対流圏)の電波反射層の観測研究が平磯・磯浜両分室を駆使して進められた。

電波伝搬の研究と並行して、その研究の要素技術となる電波到来方向探知(ゴニオ型)の研究も進められ、さらに方向探知と対になる技術として、船舶・航空機の安全航行のための無線標識(ラジオビーコン)の研究に発展し、各地の海岸や飛行場にビーコンが設置される端緒を開いた。

後に安立電気の社長になる磯英治氏は、1926年(大正15)に電試に採用されて平磯で勤務し、無線アンテナ、特に短波方位測定用アンテナ及びゴニオメータの研究に従事した。同氏は、平磯に就職する前の学生時代には、1SOの自称コールサインを持つアマチュア無線家であり、平磯出張所に着任した直後に、前述のJHBBで短波通信実験を行っていたメンバーの一人である。1932年(昭和7)に、高岸出張所長の後を追うようにして安立電気に移り[文献23]、同社の社長になった後に、平磯時代の研究(電波方位測定用ゴニオメータ)を論文にまとめて博士号を取得した。同氏は、1980年(昭和55)に自費出版した「社長の勉強」という書物の中で、平磯時代を次のように回想している。

 

そのころ電気の卒業生はだいたい電鉄会社へ行きましたが、私は弱電の方へ向かいました。卒業のころ、逓信省の電気試験所から技師の方が講師にみえていて、その無線電信の講義を私は喜んで聞き、そしてこういう先生のところへ就職したいと思っていましたので、卒業のときにその先生のところへ就職のお願いに行ったのです。弱電の方を研究していた学生が3人そろってお願いに行きますと、いろいろ話があって、最後に条件があるといわれました。俺のところに入るのには、茨城県の平磯に研究所があるので、そこで1年になるか2年になるかわからないが、最初はそこで勉強してもらう、それが一つの条件だということです。

ところが私はその前の夏休みにそこにそっと実習に行っておったわけです。誰も行かないところに実習に行って、こんな海岸で研究できたらいいなあと思っていたところが、そこへ行くという条件です。これは自分の望みですから、ああ行きますといいましたが、あとの2人は東京を離れたら困る、というのです。それで結局私がその就職に1人合格したわけです。それ以来私は、人があまり望んでいるところへ行くものではない、人が嫌がっているところへ行くべきだと思いました。それで平磯へ行きまして、そこに5年おりました。

平磯は静かなところで太平洋がすぐ真下にありました。アメリカでもみえそうなところですから、浩然の気を養いながら、都心を離れてしずかに研究ができると思って行ったところが、これはまったくあてがはずれました。ぼやけてしまったのです。夏休みは午前中仕事があっても、役所ですから午後は休みです。すぐ水泳に行きました。水泳ができなければテニスをやるというふうで研究に手がつかないのです。それ以来私は研究所はしずかなところへもってゆくものではないと思いました。研究というものは、現代の一番あたらしい先端に接しなければなりませんから、都心のもっともうるさいところへ置くべきだと、つまり研究者に刺激がなくなってしまっては駄目なのです。ほんとうに基礎的な研究ならばどうかわかりませんが、多少応用がかった研究は、かならず町の真中に置くべきだと、私はいまもそう思っていますから、会社では辺鄙なところへ研究所をおかないで、町の真中の一番うるさいところへもっていくということをモットーとしております。

私が入ったころの平磯出張所は145人でした。私どもは独身寮で、所長だけが家庭をもって、家族寮におりました。私たちは独身寮でわいわいやって、それが研究の刺激になりました。所長にはいろいろ無線のことを教わりました。所長は蔵前の先輩でしたが、昭和5年に研究所を辞めて、安立電気へ移りました。

そのときに、わしは安立へ入るから、お前もあとで来いといわれ、私は約束したようなかたちになっていました。

ところがそのあと、安立は左前になって、有名なボロ会社になってしまったのです。それで廻りの人からは、お前もうあんなところへ行くなよといわれたのですが、先輩との約束があるし、仕事も面白そうだしということで、ほかの先輩からの忠告を聞かないで結局入ったのです。

 

陸軍省、海軍省、逓信省がそれぞれ独立に進めていた電波伝搬研究を、戦時体制下において一本化するため、文部省に長岡半太郎博士を会長とする電波物理研究会が1941年(昭和16)に発足し、翌年に、TYK式無線電話機の開発者の一人である横山英太郎氏を所長とする電波物理研究所になった。平磯で電離層直接観測を始めた前田憲一出張所長は同研究所に出向し、平磯(電試)での電離層観測は中止された[文献24][8]。文部省電波物理研究所は1943年(昭和18)に東京府北多摩郡小平町大字野中新田 善左衛門組字上水南556(現・東京都小金井市貫井北町4-2-1)に戦時疎開し、NICTの直接のルーツとなった。

1941年(昭和16)に太平洋戦争が始まると、平磯は戦時研究に動員され、レーダーの能率を上げるための設置条件の研究が進められた。また、普通のレーダーでは探知できない遠距離の艦船や航空機を探知するための短波レーダーの研究が行われ、八丈島や小笠原諸島による反射を捕捉することに成功したが、兵器としての実用化には至らなかった。

太平洋戦争末期の1944年(昭和1911月に平磯は艦砲射撃を受け、その後も米軍機による数回の機銃掃射を受けた。

戦後は、その短波レーダーを用いた反射強度の常時測定を進め、その変動と距離との関係を調査した結果、跳躍距離への短波散乱はそれまで言われていた電離層内の不均一による現象ではなく、大地の後方散乱に起因することが明らかにされた。また短波レーダーを用いて流星群による電波伝搬の影響の研究も行われた。

1948年(昭和23)の電試の大合併から、1952年(昭和27)の郵政省電波研究所の発足までの間に、電波行政の民主化や電気通信事業の公社体制への移行などの影響を受けて、度重なる組織改変が行われたが、その間に平磯のミッションは、電波伝搬の異常を前もって予測して周知する電波警報の業務に、力点が置かれるようになった。そのため電離層観測だけでなく、地磁気、地電流、太陽面現象観測が業務になった。この電波警報業務は、電波擾乱予報を経て、現在の宇宙天気予報へと発展していくことになる。

平磯が郵政省電波研究所の電波観測所になってから以降の取り組みについては、元平磯支所長の丸橋克英氏による後半史に譲ることとする。

 

 

7.平磯等の無線局の変遷

 

本章では、平磯および現NICT関係の施設における、無線局の変遷について、簡単に触れておく。

戦後の平磯の無線局JG2B

出典:平磯アルバム

 

装置の上部には、JG2K(国分寺)、JG7E(山川)、JG8A(深浦)、JG9C(稚内)の各コールサインが掲げられている。

電試が短波送信機の開発などのために大正末から昭和初期にかけて運営していた3つの無線局(本所JHAB、平磯JHBB、磯浜JHCB)は、1927年(昭和2)のワシントン会議の決定に従い、それぞれJ1AFJ1AGJ1AHとなり、その後、エリア番号の規則変更に伴い、それぞれJ2AFJ2AGJ2AHに変わった[文献30]1945年(昭和20)の敗戦により、無線局の許認可は、無線電信法に基づく逓信省から、民間通信局CCSに移った。逓信省は、終戦後直ちに電離層観測及び対流圏伝搬観測のための無線局の申請を占領軍に対して行っており、1946年(昭和21829日に対日指令SCAPIN1166号により、平磯出張所を含む複数の無線局に許可が下りた。平磯出張所の戦後初の無線局は、コールサインJ9ZB、周波数3,550kHz1波固定)、電波型式A3AM)、空中線電力400Wとなっている[文献15]。他に、文部省電波物理研究所の本所・観測所や日本放送協会などの無線局も同時に、ほとんどが同じ周波数、空中線電力で許可されている[9]。当時は電波物理研究所の本所と観測所間だけでなく、電波予報警報に必要な太陽面現象の観測資料と電離層観測資料とを相互に通報するために、東京天文台(三鷹)及び同天文台乗鞍コロナ観測所(長野・岐阜県境)とも短波の電信(A1単信方式)及び電話(A3片通話方式)による通信連絡が実施されていた。それらの設備は旧日本軍で使用されていた老朽品に職員が手を加えて整備したもので、保守には苦心したと言われている[文献17]

平磯の無線局J9ZBは、JX9Bを経て、1949年(昭和24)に、政府官庁用実験局のコールサインのプリフィックスがGovernmentにちなんでJGに統一されたのに合わせ、JG2Bに変わった[文献16]。平磯アルバムに、JG2Bのコールサインプレートを掲げた送信機の写真が残っている(写真)。

1950年(昭和25)に電波法が施行され、その後、電波法施行規則の改正により、これらの連絡用無線局は1962年(昭和37)からSSB通信方式(A3J)に切り替えられることになったため、当時の郵政省電波研究所の機器課と通信方式研究室とが共同開発していたIFクリップSSB方式について、実用化試験局による実用性の調査が行われた。

1963年(昭和38)頃から、拠点間の連絡手段は短波電信電話からテレックス通信へと移行していき、平磯のSSB局は1967年(昭和423月に廃局された。なおそれに先立つ1965年(昭和40730日に、平磯のJG2Sが廃局されたという記録がある[文献18]

平磯および現NICT関係の施設における無線局は、当初は無線送受信機の研究開発を目的としていたが、やがて電離層観測のための電波発射業務や、観測拠点間の連絡事務に使用するための無線局に変わっていったものと考えられる。

 

 

8.大災害と平磯出張所

 

100年の長い歴史を持つ平磯出張所は、我が国の歴史的な大災害に遭遇している。本章では、関東大震災と、昭和三陸地震津波における平磯の取り組みを紹介する。

 

◆関東大震災(192391日)

関東大震災では、東京の電試本所は火災により灰燼に帰すほどの甚大な被害を受けた。電試事務報告にはその際の平磯の対応について、以下のように記されている[文献19]

 

当所は応援の一助たらんとして直ちに無線送受の準備を為し各所の無線所を連呼し通信連絡に努めたるも何等応答するものなく効を奏せざりしは遺憾に堪えず。

 

◆昭和三陸地震津波(193333日)

東北地方に甚大な津波被害を発生させた昭和三陸地震に際して、中井友三所長は、津波の前兆として発光現象を観測したとの報告を、中央気象台の藤原技師(藤原咲平?)に対して行っている。その報告は、中央気象台発行の「験震時報」に、以下の通り掲載されている[文献20]

 

二、茨城縣平磯町電氣試驗所平磯出張所中井友三氏より本台藤原技師宛に寄せられた書簡によれば次の如し。

 

今回の三陸の地震に於て発光現象を相認め申候間御報告申上候。 

 

一.發光現象發見當時の經緯 地震を感ずると同時に起床暫し樣子を伺ひ居り候ひしも繼續時間長くして終熄の樣子も見えざる故に萬一の場合逃出しの準備として雨戸(南向き)を一枚開け暫し外を見て居る内に南方の空に發光を認め候。

一.發光の時刻及光の繼續時間 大體の見當で最初に地震を身體に感じ初めてから約三、四分の時刻。光は殆んど瞬間的。

一.方向及光度 南方、暗夜のこととて對照物無き為精確のこと不明なれど大體の見當で距離約十米の廣場を隔てて存在する平家の屋根の少し上位の比較的低き空間に發見。

一.形及色 形は一つの線より成る圓弧。色はアークの色に近い樣な淡青緑色。恰も虹状で唯色が單色であると云ふ點が虹と違ふ、圓弧の半徑は大體の見當で普通の虹の半徑と同等か。線の幅は虹の七色の線全體の幅よりも細い樣に感じた 線は相當はつきりした線。光度は弱い方。尚當夜は晴天、星光を諸所に認めた。

 

前述の通りにして此の光が電力線電燈線の切斷等に依り生ずる火花、或はアークに依るものに非ざることは光の形よりして容易に想像し得られることにして、又當地は水戸に候へ共其の光を認めた方向には斯かる電力線電燈線は無之候(但し當家より南へ數丁先迄は電燈線有之候) 以上は小生の住家(水戸市上市備前町)に於ての記事に候。同日平磯の役所に出勤しまして此の話を致し申候處平磯でも同時刻頃に南方に光を認めたと云ふ者一名有之候、但し此の平磯に於ける光はサーチライト状の光だつたと申候但し此の平磯の方の話は確信を以て御紹介出來不申候。

 

 

 

9.平磯出張所の今日的位置づけ

 

平磯1号庁舎(1987年、筆者撮影)

1915年の開設当時に2つあった建物の一つで、受信試験室として使用されていたもの。但し後年に開設当初の位置から別の場所に移築された。移築が老朽化を早めた一因かもしれない。

平磯出張所の開設当時の建物として残っていた1号庁舎は、1998年(平成10)に老朽化のため解体された。由緒ある建物を維持できず危険防止のため取り壊さざるを得なかったことは関係者にとって痛恨の極みであり、なるべくおおっぴらにしたくないという雰囲気が当時あったが、企画部企画課に所属していた筆者は、CRLニュースの編集会議において、解体の事実について同誌で紹介することを強く主張した結果、掲載されたいきさつがある[文献21]。同原稿は筆者が執筆した。

筆者は本稿の冒頭で、NICTの母体の一つである電波研は電試を源流の一つに持つと述べたが、電試の大半をなす電力部門と通信部門がそれぞれ後の電総研とNTT通研に引き継がれ、電試から電波研に引き継がれたのは分野的にも施設的にも平磯出張所のみといえる。電波研・通総研からNICTが引き継いだ現有の拠点のほとんどは、戦時中に発足した文部省電波物理研究所に由来する(小金井、山川など。稚内は移転)か、または電波研・通総研時代になって新設した(鹿島、神戸、けいはんななど)ものであり、電試から受け継いだ平磯だけが100年前まで遡れるものである。NICTが「1896年に電試が我が国で最初に無線電信の研究に着手したことに源流を持つ組織」と言えるのも、ひとえに平磯を継承したことによる。

電試全体に視野を広げてみても、平磯は今や貴重な存在になっている。平磯出張所は、電試の中では、大阪出張所(1914年開設)に次いで早く開設された地方拠点である。大阪出張所の組織は、電総研の大阪ライフエレクトロニクス研究センターを経て現在の産総研の関西センターとして継承されているが、場所は1948年(昭和23)に現在地(尼崎支所)に移転している。産総研もNTT通研も、時代の要請や運営母体の変遷により、電試時代の敷地や施設を、今日では全くといっていいほど残していない。電試の拠点の中で、開設当時から場所を変えることなく後身の研究機関に引き継がれて、今日まで研究用途で存続している、唯一・最後の施設が、平磯なのである。

電波研究のメッカであった平磯のDNAは、産総研、NTTKDDIなど電試の後身の各研究機関にも受け継がれていると筆者は思っている。ゆえに、もはや平磯はNICTの一施設にとどまらず、我が国の通信・エレクトロニクス分野の公的研究機関全体にとっての共通の故郷とでもいうべき貴重な存在になっていることを、100年の節目に際して筆者は指摘しておきたい。

 

 

10.おわりに

 

電波伝搬の研究に主力を置くようになるよりも前の平磯出張所は、真空管という最先端の通信デバイスを探究し、ラジオという新しい通信メディアの我が国における誕生・普及を技術面で支えた。今日のNICTにおいて、新しい通信デバイスを探究し、新しいメディアのための革新的な技術の誕生・普及を目指しているのと全く同じであり、NICTの持つ先導的な役割は、平磯出張所の時代から100年経っても変わっていないことになる。

平磯の研究の柱のうち、電波伝搬の研究に主力を置くきっかけとなった短波通信の研究は、外的要因に刺激されて始まったものであった。外的要因とは、草創期のアマチュア無線家らによる短波電波伝搬の異常性の発見である。つまり平磯が短波通信の研究に参入して電波伝搬の研究にシフトしていったきっかけは、アマチュア無線家の存在によるといってよい。アマチュアが短波帯に注目するまで、業務用の無線は大電力による長波と中波が主力であった。当時のアマチュア無線家が平磯を育て、平磯の観測成果を今日のアマチュア無線家が宇宙天気予報として活用しているという互恵関係になっている。

そのような関係もあり、筆者は、NICTにゆかりのある有志と共に、平磯100周年を記念する期間限定のアマチュア無線社団局の免許を総務省関東総合通信局から受け、2014121日から1年間に渡り、無線局の公開運用や科学イベントへの出展などの活動を行っている。開設当時の平磯は前述の通り最先端のICT(情報通信技術)の研究拠点であり、我々は未来志向で次の100年のICTを見据えた活動をすべきと考え、記念局のコールサインを “8N100ICT” とした。日本のアマチュア無線記念局を表すプリフィックス “8N” に続いて、100年のICTを表している。平磯は、黎明期の無線通信技術に残した足跡の大きさに比べると、その存在をあまり知られていない。それを少しでも解消すべく、90年前のJHBBと同じく、短波無線で、全国・全世界にHIRAISOの名を届けていきたいと考えている。

 


 

【参考文献】

 

[文献1] 小川忠彦,“77周年を迎えた平磯宇宙環境センター”, CRLニュース, No.192, http://www.nict.go.jp/publication/CRL_News/back_number/192/192.htm, 19923.

[文献2]薄井源寿,平磯町60年史編さん委員会, “電波研究所平磯支所”, 平磯町65年史, pp.310-323, 1972.

[文献3] 電波監理委員会編, “日本無線史”, 3, p.13, 19512.

[文献4]電気試験所大正3年度事務報告, p.1, pp.50-63, pp.115-122, 1915.

[文献5] 若井登編, “日本の電波研究はいつどこで始まった?”,電波ってなぁに, p.215-217, 電気通信振興会, 1987.

[文献6] アンリツ株式会社社史編纂委員会編, “アンリツ100年の歩み”,p.23, 20016.

[文献7] “ラジオの混信を征服 単一側帯波通信 東北大中井助教授の発表”, 時事新報, http://www.lib.kobe-u.ac.jp/ das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00471205&TYPE=HTML_FILE&POS=1,  193695.

[文献8] 文部省電波物理研究所研究報告(昭和1718).

[文献9] 卯西次雄,郵政省電波研究所編, “電波研究所沿革史”, pp.13-75, 19613.

[文献10] 池上文夫,“巨星逝く 前田憲一先生を偲んで”, 電子情報通信学会誌, Vol.78, No.12, pp.1203-1204, http://ci.nii.ac.jp/naid/110003229348, 1995.

[文献11] 丸毛登, “真空管通信のれい明期(電気通信学会の創立)”, 電子通信学会50年史, p.140-143, 19679.

[文献12] 電波監理委員会編, “日本無線史”, 3, pp.68-70, 19512.

[文献13]電気試験所大正14年度事務報告, pp.83-95, http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/976419, 1926.

[文献14] “J1PP J8AA”, History of Citizens Band Radio, https://sites.google.com/site/cb465mhz/amateur-radio/j1pp

[文献15]J Callsigns, History of Citizens Band Radio, https://sites.google.com/site/cb465mhz/callsign/j-callsigns

[文献16]“新プリフィックス”, History of Citizens Band Radio, https://sites.google.com/site/cb465mhz/callsign/ new-prefix

[文献17] 郵政省電波研究所編, “電波研究所20年史”, pp.327-329, 1972.

[文献18] 郵政省電波研究所編, “昭和40年度研究調査報告書”(部内資料), p.94, 1966.

[文献19]電気試験所大正11年度・12年度事務報告(震災のため2年度分の合併発行となった), p.107, http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/976417/52, 1924.

[文献20]中央気象台, “発光現象に関する報告”,験震時報, Vol.7, No.2, pp.360-361, http://www.jma.go.jp/jma/kishou/books/kenshin/vol7p355.pdf, 1933825.

[文献21] 企画部企画課, “平磯宇宙環境センター1号庁舎解体”, CRLニュース, No.267, http://www.nict.go.jp/publication/CRL_News/9806/news267.html, 19986.

[文献22] トキマリンショップ, http://www5.ocn.ne.jp/~t-marine/index.html

[文献23]電子情報通信学会編, “知識の森”, 143編 電子情報通信人名録, http://www.ieice-hbkb.org/.

[文献24] 電気試験所編, “創立60周年記念 電気試験所最近の十年史”, p.245, 1951.

[文献25] J1AA, History of Citizens Band Radio, https://sites.google.com/site/cb465mhz/amateur-radio/j1aa

[文献26]電気試験所大正15年度・昭和元年度事務報告, p.60, 1927.

[文献27]電気試験所大正7年度事務報告, http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/976415/42, pp.1-2, 1919.

[文献28] 高岸栄次郎,磯英治,川添重義, “短波長送信機の設計及其の試験成績 前篇 ―設計”, 電気試験所研究報告, Vol.243, http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1147577, 192812.

[文献29] 高岸栄次郎,磯英治, “短波長送信機の設計及其の試験成績 後篇 ―試験成績”, 電気試験所研究報告, Vol.24, http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1147587, 19291.

[文献30] 高瀬芳卿, “短波実験局の設計と運用”, 誠文堂新光社, p.245, 1940.

 


 

【付録】  電気試験所事務報告(大正4年度〜昭和14年度)に掲載された、平磯出張所の研究テーマリスト

 

以下は、各年度の電試事務報告の平磯出張所の項に掲載されている、研究テーマと担当者のリストである。NICT図書室に収蔵されている電試事務報告は、明治43年度から昭和14年度までのため、本リストも昭和14年度までとしている。昭和14年度版は、太平洋戦争勃発後の昭和1712月発行であり、昭和15年度以降は戦局の悪化により、あるいは戦時下における情報統制のために、事務報告が発行されなかった可能性がある。国立国会図書館に収蔵されている電試事務報告も、大正5年度〜昭和13年度と、昭和2123年度のみであり、戦時中の分は収蔵されていない。

この研究テーマリストの登場人物のうち、土岐重助氏は、後に日本放送協会の技術部長となり、港区愛宕山で放送を行った国産1号機の設計者となった。同氏は戦後、個人経営の土岐電気株式会社を大洗町磯浜に設立し、ラジオ、船舶用の受信機・送信機の製作、販売を開始した。同社通販部のトキマリンンショップは、魚群探知機や船舶レーダーなど海洋向けの無線関連機器の販売で、現在も盛業中である[文献22]

 

 

逓信省電気試験所平磯出張所 研究テーマ年度別一覧(電試事務報告より)
タイトル概要担当者
●大正4年度(第4部の章で「平磯及磯浜分室に於て実験」と記されたテーマ)
無線通信用地線の構成について北村政次郎土岐重助
空中線線条数とその電気容量及固有電波長の関係に就て北村政次郎土岐重助
中間回路に関する研究瞬滅火花間隙を使用する送信装置に中間回路を使用する研究北村政次郎土岐重助
空中線電路の構成について北村政次郎土岐重助
指向式無線電信に関する研究北村政次郎土岐重助
簡単なる受波装置について北村政次郎土岐重助
無線電話の柱高と受話強度との関係北村政次郎土岐重助
無線電話用設置容量に関する研究北村政次郎土岐重助
近接せる宏大なる空中線の無線電話通話に及ぼす影響について北村政次郎土岐重助
受波用蓄電器の誘電体について北村政次郎土岐重助
TYK式無線電話装置に使用する諸種の密結合型振動変圧器に関する研究北村政次郎土岐重助
無線電話空中線の励電方法と受話強度の関係北村政次郎土岐重助
中間回路として架空線を使用する研究北村政次郎土岐重助
中間回路の結線方式に関する研究北村政次郎土岐重助
混信及び空電防止装置の研究北村政次郎土岐重助
●大正5年度(第4部の章で「平磯及磯浜に於て実験」「平磯に於て実験」と記されたテーマ)
低さ高さを有する空中線に関する研究マルコニー式屈折空中線及びキービッツ式地上空中線の能率と指向性北村政次郎土岐重助
指向式無線電信に関する研究ベリニー、トッシー式無線電信に関する研究北村政次郎土岐重助
空中線の電気常数について空中線の電気容量及び自己誘導係数の算出法に関する研究北村政次郎 
真空球による増幅受波法について真空球を使ってハワイのカフク局とサンフランシスコのマーシャル局を受信し、最も有効に増福受波を行える電路の接続を研究北村政次郎丸毛登
真空球の真空度について排気の程度を異にする受信用真空球について真空度と受信感度との関係の研究北村政次郎
中間回路に送話器を挿入する無線電話送話装置の研究横山英太郎北村政次郎
●大正6年度(第4部の章で「平磯ニテ実験」と記されたテーマ)
同時送受無線電話に関する研究真空球を送受波部に使用する同時送受無線電話に関する研究北村政次郎
●大正7年度(同年以降は「平磯出張所」の章が独立)
無線式有線多重電信試験(第4部と協同)
真空球式電信送信装置に関する研究(第4部と協同)
窒素瓦斯封入受波用真空球に関する研究(第4部と協同)
波長計施度法に関する研究導線の固有定常波とその高調波を利用して波長計の目盛りを施す方法に関する研究北村政次郎
捲線の分布静電容量を軽減する方法に関する研究北村政次郎
簡易無線電信装置に関する研究北村政次郎
無線式有線多重電話試験(第4部と協同)
鬼怒川水力電気株式会社送電線における無線式電話試験(第4部と協同)
無線式有線多重電信電話装置の改良に関する研究(第4部と協同)
無線式電信電話装置に関する研究送波用真空球を受波用真空球に共用させる無線式電信電話装置に関する研究(国内特許出願)北村政次郎
無線式有線電信電話用保安装置に関する研究(第4部と協同)
送電線を電信電話線に共用する装置の改良に関する研究(第4部と協同)
富士水電株式会社送電線における無線式電話試験(第4部と協同)
●大正8年度
真空球式無線電信装置に関する研究高周波式多重電信装置において唸りを利用する通信法の研究北村政次郎磯部喜平
真空球装置に交流を利用する研究北村政次郎磯部喜平
真空球増幅方法の研究高声発音(拡声)のための真空球増幅法の接続、器具の構成及び真空球の条件についての研究北村政次郎土岐重助磯部喜平
高周波式電信電話装置の信号法北村政次郎土岐重助
ループアンテナ受波法に関する研究遠距離受信のためのループアンテナ受波法に関する研究北村政次郎土岐重助
無線電話送話電流のモヂュレーションに関する研究真空球式無線電話の明瞭度改善のための送話電流のモヂュレーション(変調)に関する研究土岐重助
●大正9年度
多重無線電信電話に関する研究単一空中線あるいは分離空中線を用いた真空球式多重無線電信電話に関する研究丸毛登土岐重助
鬼怒川水力電気株式会社の送電線における高周波式電話試験(第4部と協同)
茨城丸における無線電信実験茨城県所属漁場調査船茨城丸との無線電信実験(茨城県からの依頼)土岐重助
青森函館における無線電話及び有線無線両電話接続交機試験(第4部と協同)
高周波電流濾波装置に関する研究多重高周波電信電話或は多重無線電信電話に使用する濾波装置に関する研究丸毛登
無線電信電話用受聴器に関する研究土岐重助
高周波通信線の構成に関する研究丸毛登
受波および増幅真空球に関する研究土岐重助
交流を使用する真空球式無線電信装置に関する研究丸毛登土岐重助
同時無線電信電話に関する研究(第4部と協同)
送電線に高周波電流を重畳する方法に関する研究丸毛登
●大正10年度
送電線における高周波電話に使用する平行線条の構成に関する研究北村政次郎丸毛登坪内信
交流を使用する真空球式無線電信装置に関する研究土岐重助
真空球検波器及び増幅器について土岐重助
可聴周波数増幅器用中間変圧器について土岐重助
真空球式受信機に関する研究土岐重助
コイル空中線及びコンデンサー空中線に関する研究丸毛登土岐重助
近接空中線の影響について土岐重助
青函試験に関する予備研究丸毛登土岐重助
●大正11年度
青森函館間無線電話試験に関する研究丸毛登土岐重助大野煥乎吉田晴
長距離無線電信受信に関する研究丸毛登土岐重助
国際通信会議に伴ふ関係事項の調査及試験(原町送信所の空中線実効高の測定、他)丸毛登大野煥乎吉田晴
気象による送信電波長の変化について丸毛登土岐重助
非接地空中線に関する研究丸毛登
近接空中線に関する研究大野煥乎
交流真空管式無線電信に関する研究大野煥乎
真空管式増幅受波並びに記録受信に関する実地試験丸毛登土岐重助
●大正12年度
青森函館間における真空管式無線電信試験丸毛登土岐重助
青森函館間無線電話試験丸毛登高岸栄次郎大野煥乎吉田晴石井好忠
高周波式電信電話に関する研究丸毛登吉田晴
鉱石及び真空管検波器を動作するに要する高周波電力について吉田晴
近接受波空中線相互間における誘導作用について土岐重助
定常波による波長計の較正について石川正一川添重義
相近接せる二個の空中線間における誘導作用の研究高岸栄次郎川添重義
スウパーリゼネレーチヴ受波法に関する研究大野煥乎
●大正13年度
受話に要する空中線勢力の測定丸毛登吉田晴
定常波による波長計の較正について高岸栄次郎川添重義
単一線条アンテナの標準空中線に対する有効度について丸毛登吉田晴
放送無線電話に関する研究   
 1.放送無線電話聴取試験丸毛登高岸栄次郎吉田晴
 2.放送用私設無線電話規則第14条第4号に対する試験丸毛登吉田晴 
 3.放送無線電話に関連する無線電信電話混信試験高岸栄次郎吉田晴
 4.放送無線聴取用受信機に関する予備試験
  (1)枠型アンテナに振動電流を発生する受話装置が他の聴取者に及ぼす妨害程度試験高岸栄次郎吉田晴川添重義
  (2)高周波増幅器を通じて再生式となしたるときの妨害吉田晴川添重義
  (3)再生式受信機を有する二個の枠型アンテナが互に並列にある場合の妨害試験吉田晴川添重義
 5.東京放送局受話試験高岸栄次郎川添重義
外国製優秀受信機の試験高岸栄次郎吉田晴畠山孝吉川添重義
空中線の常数測定試験吉田晴畠山孝吉川添重義
受信装置の遮蔽につきて高岸栄次郎吉田晴川添重義
KGO放送局受話試験丸毛登高岸栄次郎吉田晴川添重義
空中線の輻射高の測定高岸栄次郎畠山孝吉川添重義
スウパーヘテロダイン受信機に関する研究高岸栄次郎川添重義
KGO放送局電波の平磯地点における電波強度の測定丸毛登高岸栄次郎畠山孝吉川添重義
短波長に関する研究丸毛登高岸栄次郎畠山孝吉川添重義
標準電波による波長計較正試験逓信官吏練習所から波長400m〜2500mの6種波長の標準電波を送信し各逓信局保管の波長計を較正する試験を行ったのに合わせ、平磯の波長計も較正した。畠山孝吉
枠型アンテナの輻射高高岸栄次郎
パラオ無線電信局受信強度測定試験高岸栄次郎畠山孝吉
青函間無線電信電話試験丸毛登土岐重助吉田晴
青函間無線電話聴取試験丸毛登吉田晴畠山孝吉
●大正14年度
短波長受信試験
 1.独逸POX放送電信受信試験高岸栄次郎畠山孝吉川添重義 
 2.北米合衆国KDKA放送電話受信試験高岸栄次郎畠山孝吉川添重義
 3.独逸POF放送電信受信試験高岸栄次郎川添重義 
 4.ARRL送受試験7月18-19、7月25-26、8月1-2日に行われたARRL主催の超短波長試験に参加。1回目は受信の準備が間に合わず2、3回目の受信は不成績に終わった。送信試験も行った。高岸栄次郎中井友三畠山孝吉川添重義
 5.独逸POF受信試験畠山孝吉
 6.独逸POF、POW、和蘭PXLL等傍受試験畠山孝吉
 7.ポリナス6XI受信試験畠山孝吉
 8.太平洋航行中の春洋丸の短波長電波受信試験畠山孝吉川添重義
短波長電波の波長変更送信試験高岸栄次郎畠山孝吉川添重義
平行線上の定常波による短波長用波長計の較正について高岸栄次郎畠山孝吉川添重義
短波長受信機に関する試験高岸栄次郎畠山孝吉川添重義
水平空中線による受信に関する試験畠山孝吉
米国標準波長電波受信試験ワシントン市WWVとスタンフォード大学内6XBMを受信高岸栄次郎畠山孝吉川添重義
長波長電界強度測定試験中井友三
真空管の特性及び動作に関する研究高岸栄次郎
放送ラヂオ受信に要する最簡単受信機の決定高岸栄次郎川添重義
放送電波の高調波による受信試験畠山孝吉
放送無線電話に関する試験
 1.JOBK放送試験開局前試験放送の受信(5月17日〜19日)高岸栄次郎川添重義
 2.JOCK放送試験開局前試験放送の受信(6月25日〜27日)高岸栄次郎畠山孝吉
静電送話器に関する研究川添重義
電界強度測定法に関する調査高岸栄次郎中井友三
●大正15年度・昭和元年度
並行線上の定常波による短波長波長計の較正について高岸栄次郎畠山孝吉川添重義
短波長無線電話機に関する研究高岸栄次郎川添重義
短波長受信試験高岸栄次郎畠山孝吉
短波長発振機の波長一定保持に関する研究高岸栄次郎川添重義
波腹において饋電せられたる導線上の定常電流分布について高岸栄次郎磯英治
指向式空中線に関する研究高岸栄次郎磯英治
回転電波に関する研究高岸栄次郎磯英治
定常波を載せたる並行線の橋絡電流について高岸栄次郎磯英治
低周波増幅器の研究高岸栄次郎畠山孝吉
受信波長と受信空中線線長との間の最良関係高岸栄次郎畠山孝吉
水平空中線による受信に関する試験畠山孝吉
短波長空中線に関する研究高岸栄次郎磯英治川添重義
短波長特別高圧用真空管電圧計に関する研究高岸栄次郎
真空管の特性及動作に関する研究高岸栄次郎
長波長電界強度測定試験中井友三
電磁遮蔽に関する研究中井友三
長波長電波方向探知と周囲の擾乱作用中井友三
空中線輻射高の測定中井友三
再輻射空中線の再輻射定数中井友三
電車雑音試験中井友三
受信電波強度測定法に関する調査高岸栄次郎中井友三
●昭和2年度
短波長無線電話機に関する研究高岸栄次郎磯英治
短波長無線電話放送試験高岸栄次郎磯英治上野茂敏
短波長受信試験畠山孝吉
短波長指向性空中線に関する研究高岸栄次郎磯英治
回転電波に関する研究高岸栄次郎磯英治
短波長特別高圧用真空管電圧計に関する研究高岸栄次郎畠山孝吉
短波長饋電線に関する研究高岸栄次郎磯英治川添重義
変調法の考案高岸栄次郎畠山孝吉川添重義
変調度計に関する研究高岸栄次郎磯英治川添重義上野茂敏
真空管の特性及び動作に関する研究高岸栄次郎
長波長電界強度並びに空電強度測定中井友三
空電並びにサイゴンその他数局の方向測定試験中井友三
空電の一、二の現象についての研究中井友三
グラインダー強度に関する一、二の問題中井友三
モントグランド局その他遠距離局の単方向測定中井友三
近距離長波長大電力局の空間波中井友三
電波輻射に対するステーの影響畠山孝吉磯英治
受信電波強度測定法に関する調査高岸栄次郎中井友三
●昭和3年度
短波長無線電信電話機に関する研究高岸栄次郎磯英治川添重義
短波長受信試験高岸栄次郎畠山孝吉上野茂敏
短波長指向性空中線に関する研究高岸栄次郎磯英治平賀大一
多相振動電流に関する研究高岸栄次郎磯英治
各種短波長送信空中線性能試験高岸栄次郎磯英治
超高周波特別高圧用真空管電圧計に関する研究高岸栄次郎畠山孝吉
超高周波饋電線に関する研究高岸栄次郎磯英治川添重義
変調計に関する研究高岸栄次郎上野茂敏 
真空管の特性及び動作に関する研究高岸栄次郎 
振動回路の高周波抵抗に関する調査及び研究高岸栄次郎平賀大一
長波長電界強度並びに空電強度測定谷村功
空電並びにサイゴンその他数局の方向測定谷村功
流星群による空電の影響試験谷村功
送信空中線輻射高測定谷村功
方向変動状態に関する研究谷村功
ヘテロダイン受信に関する調査谷村功
●昭和4年度
多相振動電流に関する研究高岸栄次郎磯英治
変調計に関する研究高岸栄次郎上野茂敏
真空管の特性及び動作に関する研究高岸栄次郎
短波長電波の方向探知難波捷吾磯英治
電磁波のポーラリゼーション難波捷吾上野茂敏
遠距離における放送電波の伝搬特性平賀大一
短波フェーディングの測定平賀大一
短波受信試験ツェッペリン号難波捷吾磯英治平賀大一上野茂敏
長波長電界強度並びに空電強度測定谷村功
空電サイゴン其の他数局の方向測定谷村功
流星群による空電の影響試験谷村功
電波方向変動状態に関する研究谷村功
ヘテロダイン受信に関する調査谷村功
長波長フェーディングの測定谷村功
●昭和5年度
短波電界強度の測定難波捷吾磯英治平賀大一上野茂敏
短波のポーラリゼーション難波捷吾上野茂敏
短波の方向探知難波捷吾磯英治
短波のラテラル、リフラクション難波捷吾
短波近接反響現象難波捷吾上野茂敏
短波フェーディングの測定平賀大一
短波受信空中線難波捷吾磯英治
地球磁極と電波伝播難波捷吾
短波送信機の改良木村六郎
放送電波の伝播特性平賀大一
長波のポーラリゼーション難波捷吾上野茂敏
長波長電界強度並びに空電強度24時間測定谷村功
空電並びにサイゴンその他数局の方向測定谷村功
長波におけるナイト、エラーの研究谷村功
●昭和6年
短波電界強度の測定難波捷吾上野茂敏木村六郎
大気上層電離図の製作とその応用(電界強度予測法)難波捷吾塚田太郎
再合常数の実験的決定難波捷吾塚田太郎
電波伝播に関する一般理論の研究難波捷吾
長電波伝播の理論的研究横山英太郎難波捷吾
放送電波の伝播特性平賀大一
長電波の電界強度測定中西菊摩
短波方向探知機による連続方向測定塚田太郎
新型短波用ゴニオメータの考案塚田太郎
新型中波用方向探知器の考案難波捷吾塚田太郎
超短波伝播特性の研究上野茂敏木村六郎
都市における超短波の伝播及び吸収上野茂敏木村六郎
超短波を利用する上空電離度の測定難波捷吾上野茂敏
超短波中継装置の研究上野茂敏木村六郎
新しき短波Matching Circuitの考案飯沼元木村六郎塚田太郎大野貫二齋藤正雄
短波饋電線に関する研究飯沼元
高周波インピーダンス測定器の設計及び試作飯沼元
短波受信機の研究飯沼元齋藤正雄
短波送信機の改良及び特性の研究木村六郎
●昭和7年
短波電界強度測定中井友三飯沼元前田憲一許斐貢鴨志田武仲上稔
短波方向測定中井友三塚田太郎
北極夜間時の短波伝播の研究中井友三仲上稔
波長15m以下の短波の遠距離伝播特性の研究中井友三上野茂敏
中波伝播特性の研究上野茂敏
長波電界強度測定中井友三中西菊摩渡部十蔵
日本、波蘭土間長波電界強度の相互同時測定中井友三渡部十蔵
短波による上空電離層の研究前田憲一
方向探知器を用ふる短波の散乱現象測定前田憲一塚田太郎
短波電界強度測定装置の設計及び試作飯沼元
短波電界強度測定装置の較正及び特性試験飯沼元仲上稔
中波電界強度測定装置の設計及び試作上野茂敏
新型短波用ゴニオメーター式方向探知器の研究塚田太郎
中波無線標識の研究上野茂敏木村六郎岡田實
超短波無線標識の研究上野茂敏木村六郎岡田實
電気石直接制御超短波送話機の研究上野茂敏木村六郎
超短波伝播特性の研究中井友三上野茂敏木村六郎岡田實
航空無線に関する調査岡田實
●昭和8年
短波電界強度測定中井友三許斐貢鴨志田武去来川幸夫坂本一正仲上稔遠藤幸吉
短波方向測定中井友三去来川幸夫
高緯度地方の短波伝播の研究中井友三仲上稔
遠距離短波局の方向の狂いについての研究中井友三
短波伝播状態の年々の変化に関する研究中井友三遠藤幸吉
短波電界強度測定結果に及ぼす大地の導電率の影響試験中井友三鴨志田武坂本一正遠藤幸吉
長波電界強度測定結果の取りまとめ中井友三
超短波遠距離伝播特性の研究中井友三木村六郎
超短波方向探知器の研究中井友三坂本一正
短波による上空電離層の反響現象測定前田憲一
皆既日蝕時における電離層の研究前田憲一
電離層の電子密度測定装置の製作並びに研究前田憲一許斐貢
電離層突き抜け周波数測定用送信機の設計木村六郎許斐貢
受信空中線の基本特性研究中井友三去来川幸夫
航空機試乗並びに航空無線局及び航空機局調査木村六郎岡田實
中波無線標識の研究木村六郎岡田實山宮郁彌
中波無線標識の実地試験木村六郎岡田實
航空無線に関する調査並びに研究小松清一岡田實
超短波回転無線標識の研究木村六郎岡田實
超短波固定無線標識の研究木村六郎岡田實
無線標識用超短波空中線装置の輻射特性の研究木村六郎去来川幸夫
●昭和9年
短波電界強度測定中井友三鴨志田武坂本一正松平維石  
短波方向測定中井友三去来川幸夫
冬期北極暗黒帯地方における短波伝播状態の実験研究中井友三鴨志田武去来川幸夫
短波伝播状態の年々変化に関する研究中井友三
電離層中における短波の減衰に関する研究中井友三
電界強度自動記録器の研究中井友三
大地導電率の短波電界強度に及ぼす影響に関する研究中井友三鴨志田武
電離層電子密度の測定前田憲一許斐貢
日食実験結果の整理取りまとめ前田憲一
電波散乱現象に関する考察前田憲一許斐貢松平維石
電離層測定用送信装置の製作許斐貢
電離層実験における自動式連続記録法の研究前田憲一
超短波方向探知器の研究中井友三横山浩
短波入射角測定法の研究並びに同装置の設計中井友三横山浩前田憲一松平維石
自動方位表示式無線標識の研究小松清一岡田實山宮郁彌
送信用ゴニオメーターの研究小松清一岡田實山宮郁彌
反転式無線標識の改良岡田實
旅客機用無線電信局の調査小松清一
●昭和10年
電界強度の測定
  短波電界強度測定難波捷吾前田憲一横山浩松平維石玉井一郎
  短波電界強度の自動連続記録難波捷吾前田憲一横山浩松平維石玉井一郎
  超短波伝播の研究難波捷吾前田憲一鴨志田武
  放送波電界強度並びにフェーヂング測定前田憲一鴨志田武
  中波電界強度並びにフェーヂング測定鴨志田武
  短波長電波測定器の設計並びに試作飯沼元
電離層の研究
  電離層の測定前田憲一去来川幸夫
  多周波数短波送信機の設計と調整並びに周波数自動連続変化装置の試作前田憲一許斐貢
  電離層測定用受信装置の設計及び試作前田憲一塚田太郎去来川幸夫
  電離層研究用送信機の直流電源の組立小松清一去来川幸夫
  電離層測定に使用する偏波計の研究及び試作塚田太郎去来川幸夫
入射角の測定
  短波の受信点における到来入射角の測定難波捷吾前田憲一横山浩玉井一郎
  短波入射角測定装置の較正難波捷吾前田憲一横山浩玉井一郎
方向探知器に関する研究
  短波方向探知器に関する研究塚田太郎森田孝一
その他の研究
  垂直並びに水平空中線の垂直面内の受信指向特性の測定前田憲一横山浩松平維石玉井一郎
  大地面における電波反射率の測定前田憲一鴨志田武
  放送無線電話の良聴区域を拡大する事の研究難波捷吾木村六郎
●昭和11年
短波の伝播に関する研究
  短波電界強度測定難波捷吾前田憲一横山浩森田孝一
  短波電界強度自動記録難波捷吾前田憲一横山浩
  短波到来入射角の測定難波捷吾前田憲一横山浩
  短波電界強度計算法の研究難波捷吾前田憲一塚田太郎
周波数30Mc/s程度の電波(10m電波)の伝播に関する研究
  10m電波の受信試験前田憲一鴨志田武
  10m電波の伝播特性曲線の作成前田憲一塚田太郎
電離層の研究  
  電離層に関する測定前田憲一塚田太郎鴨志田武栗村俊男松山博
  Dellinger現象に関する研究前田憲一去来川幸夫鴨志田武
  日蝕時における電離層の研究前田憲一去来川幸夫松山博
  電離層測定における電波送受方式の研究前田憲一塚田太郎松山博
  電離層測定用送受信装置の設計前田憲一横山浩塚田太郎松山博
空電の自働測定
  空電自働測定装置の試作前田憲一横山浩森田孝一
短波方向探知器の研究
  ゴニオメーター型方向探知器の改良塚田太郎
  直視式方向探知器の設計塚田太郎
●昭和12年
短波の伝播に関する研究
  短波電界強度測定難波捷吾前田憲一横山浩河野哲夫錦織清
周波数30Mc程度の電波(10m電波)の伝播に関する研究
  受信試験前田憲一横山浩河野哲夫錦織清松山博眞島宗二
  近距離(約4000km)内の短波並びに超短波伝播特性の研究前田憲一横山浩塚田太郎
電離層の研究
  電離層に関する測定前田憲一塚田太郎鴨志田武
  電子密度の年変化に関する研究前田憲一塚田太郎鴨志田武
  太陽白斑が電離層に及ぼす影響に関する研究前田憲一
  電離層に関する理論的研究塚田太郎
  電離層内の電波伝播に関する理論的研究塚田太郎
  電離層測定用送受信装置の製作前田憲一塚田太郎鴨志田武松山博
  電離層研究用偏波受信機の試作前田憲一河野哲夫
方向探知器に関する研究
  直視式陰極線方向探知器に関する研究塚田太郎眞島宗二
  短波方向探知に関する一般的研究塚田太郎錦織清眞島宗二
  超短波方向探知器に関する研究前田憲一横山浩錦織清
  中短波方向探知器の研究前田憲一横山浩
空電の研究
  ブラウン管による空電の測定前田憲一横山浩塚田太郎
  空電の自動測定前田憲一横山浩
インパルス電波の応用に関する研究
  尖鋭インパルス電波の発生に関する研究前田憲一河野哲夫
●昭和13年
短波の伝播に関する研究
  短波電界強度測定難波捷吾前田憲一横山浩錦織清河野哲夫
  近距離短波電界強度の計算法の研究前田憲一横山浩塚田太郎
  10m短波電界強度測定塚田太郎錦織清眞島宗二
  超短波電界強度測定器の試作前田憲一横山浩錦織清
電離層に関する研究
  電子密度の年変化に関する研究前田憲一塚田太郎鴨志田武
  電離層に関する測定前田憲一鴨志田武
方向探知機の研究
  短波方向探知機の改良塚田太郎眞島宗二
  直視式短波方向探知機の製作塚田太郎眞島宗二
  超短波方向探知機の試作改良前田憲一横山浩錦織清
  中波方向探知機の改良前田憲一横山浩塚田太郎
低空反射層の研究
  低空反射層測定装置の研究前田憲一河野哲夫大森武夫
  低空反射層の測定前田憲一河野哲夫大森武夫
●昭和14年
短波の伝播に関する研究前田憲一
  短波電界強度測定横山浩錦織清
  10m短波電界強度測定塚田太郎錦織清 
  近距離における短波電界強度計算法の完成前田憲一
超短波の伝播に関する研究前田憲一
  イムパルス法による超短波伝播の研究横山浩河野哲夫
  超短波Fadingの記録測定横山浩
  超短波標準信号発振器の試作改良横山浩
電離層に関する研究前田憲一
  電離層に関する測定鴨志田武
  電離層測定用受信機の試作鴨志田武
  電離層の測定結果と最高利用周波数の関係についての研究河野哲夫
方向探知機に関する研究前田憲一
  超短波方向探知機の試作改良横山浩錦織清
  短波方向探知機の改良錦織清
  直視式短波方向探知機の研究眞島宗二
低空反射層の研究前田憲一
  インパルス法による低空反射層測定装置の研究河野哲夫
  周波数変化法による低空反射層の測定河野哲夫眞島宗二
  低空反射層の反射機構の研究河野哲夫
短波入射角測定装置の研究
  直視式入射角測定装置の試作研究前田憲一錦織清


[1]磯浜分室の跡地は、茨城県立児童センターこどもの城(茨城県東茨城郡大洗町磯浜町8249-4)の拡張に伴い、同施設の野外活動場になっている。同施設には、敷地拡張時に茨城県が建立した「無線研究発祥の地」の記念碑がある(写真)。

 

無線研究発祥の地

この土地に大正41月(1915年)逓信省電気試験所平磯出張所磯浜分室(現郵政省電波研究所平磯支所)が設置され日本で初めて電波伝搬研究を開始幾多の輝かしい業績を挙げた由緒ある地である

昭和623月吉日建立

 

 

 

 

2014124日、筆者撮影)

 

[2]TYK式無線電話機は、実物2台が郵政博物館資料センターに現存しているほか、レプリカがNICT本部およびアンリツ株式会社の展示室に展示されている。

[3]3年前のタイタニック号沈没事故を契機に、前年にロンドンで締結された海上人命安全条約に基づく。

[4] 1918年(大正768日勅令第219号の特別官制発布により、電気試験所は逓信省電気局の一課から、逓信大臣直属の42出張所1課の組織として昇格し[文献3][文献27]、その際に平磯は正式に出張所になったと考えられる。

[5]後に郵政省電波研究所長を歴任した河野哲夫出張所長については、私事の余談になるが、筆者は一度だけ電話でお話をしたことがある。筆者が電波研に就職した直後の1987年(昭和62)に、遠縁の叔母から、「自分の知り合いに電波研の元所長がいるから紹介してあげる。覚えてもらって出世に役立てて。」と無理難題を言われ、ある日、河野氏から職場の私に突然電話がかかってきたのである。何を話したか覚えていないが、私はどう対応していいかわからず、叔母が河野氏にどういうお願いをしたのかはわからないが、電波研を退いて既に久しかった河野氏にご迷惑をおかけしたという思いだけが、筆者の記憶に残っている。

[6] 平磯出張所が1942年(昭和17)設立の文部省電波物理研究所に移管されたとする説があるが、筆者が調べた限りでは、そのような事実はない。電波研究所沿革史[文献9]には電波物理研究所の組織図の変遷が詳しく載っているが、それによると平磯は一度も付属しておらず、電波観測所は稚内、深浦、新発田、山川、勝浦、浜名、大阪に置かれていた。電波物理研が1948年(昭和23)に電試に統合された際に平磯は「出張所」として電試側に既にあり、電波物理研の施設として移ってきた「電波観測所」とは一線を画していた。電試が商工省電気試験所と逓信省電気通信研究所(通研)とに分割された際も、平磯は出張所のまま通研側に移ったが、さらに逓信省が郵政省と電気通信省に分割されて通研が後者の内局になった際に、平磯出張所は平磯電波観測所に改組され、この時に初めて電波物理研に由来する電波観測所群と平磯とが同列になった。

[7] 逓信省は戦時中に運輸通信省や逓信院等に組織改変され戦後に逓信省に戻った動きがあるが、その部分は細かいので省略している。また電気試験所の所属は逓信省内で局の下から大臣官房の下に移ったりしているが、それも省略している。

 

[8]筆者が平磯100周年記念式典(2014125日開催)の会場において、戦時中から平磯の職員であった磯崎進氏にヒアリングしたところ、[文献24]の記述に反し、戦時中も平磯において電離層観測を行っていたという証言を得ている。

[9]この時に許可が下りた文部省電波物理研究所所属の実験局は、本所(小平)J9ZH、稚内J8ZB、深浦(後に秋田に統合)J7ZA、新発田(後に秋田に統合)J9ZA、勝浦J9ZE、浜名J2ZB、犬吠J9ZK、山川J6ZBとなっている[文献15]


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