活動報告

「標準電波JJY発祥の地」旧検見川送信所跡において
アマチュア無線記念局8N100ICTをアウトドア運用

2015年5月13日
2015年6月9日改訂

国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT)の職員有志らによるアマチュア無線記念局(コールサイン8N100ICT)は、去る4月25、26両日に、千葉市花見川区の旧逓信省検見川送信所跡において、標準電波JJYの開局75周年をPRする無線運用を行いました。

●はじめに

国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT)の職員有志らによって構成される「無線通信研究アニバーサリーアマチュア無線記念局リレー実行委員会」は、我が国の無線通信の研究の歴史を振り返り広く紹介することを目的とするアマチュア無線記念局を、2014年から開設・運用しています。その一つとして昨年12月1日に、平磯無線(逓信省電気試験所平磯出張所、現NICT平磯太陽観測施設)の100周年、および標準電波JJYの開局75周年などを記念するアマチュア無線局(コールサイン8N100ICT)を開局しました。同局は普段は、NICTの本部(東京都小金井市)において職員の余暇時間に運用されているほか、休日には無線通信研究の歴史にゆかりのある場所に移動して運用し、その場所の歴史的意義を広く紹介しています。

●検見川送信所について

検見川送信所(千葉市)は、逓信省(現在の総務省及びNTTなど)により、海外との無線電報業務を行うために、岩槻受信所(埼玉県)とセットで、1926年(大正15年)に開設されました。当時の無線技術では、送信電波が受信装置に干渉を与えないように、送信所と受信所を隔離して設置し、中央から遠隔操作する運用が一般的でした。検見川と岩槻は、東京無線電信局から遠隔操作される送受信局でした。

岩槻受信所には、建設工事を担当した逓信省の職員によりアマチュア的に開設された無線実験局(コールサインJ1AA)があり、施設の竣工に先立つ1925年(大正14年)に、当時はまだ黎明期だった短波を用いて、初めて米国との交信に成功するという、無線史上の快挙を成し遂げました。J1AAはその後、検見川送信所における業務用無線局のコールサインとして継承されました。そのため、「イワツキ」と「ケミガワ」は、我が国のアマチュア無線家にその名を広く知られる無線局となっています。

岩槻受信所の無線実験局J1AAが1925年(大正14年)に短波で初めて米国と交信に成功した際の相手局6BBQ フランク・マシック氏のQSLカード(交信証)。(NICT所蔵)
これはJ1AAによる成功の約1年後に平磯無線JHBBが同氏と短波で交信した際に受け取ったもの。

岩槻J1AAによる日米初交信を伝える当時の新聞記事・時事新報 1925年(大正14)4月10日(神戸大学電子図書館)

岩槻J1AAによる日米初交信を伝える官報, 1925年(大正14)4月15日, pp.17-18 (国立国会図書館デジタルコレクション)

岩槻J1AAによる日米初交信を伝える論文/中上豊吉,小野孝,穴澤忠平,“短波長と通信可能時間及通達距離との関係に就て”,電気学会雑誌,Vol.46,No.456,pp.695-711,1926年7月.(JST J-STAGE)

岩槻受信所J1AAを経由して平磯無線JHBBあてに海外から届いたQSLカードの宛名面。(NICT所蔵)
J1AAが我が国を代表する無線局として海外のアマチュア無線家に知られていた事実を物語る。

●検見川送信所と標準電波について

無線装置の周波数のズレを補正するための技術者向けの基準として、大正末期から「標準電波」と呼ばれる無線局が、海軍省や逓信省によって徐々に整備されました。逓信省では不定期の試験発射を経て、1927年(昭和2年)から、省内の技術者が使用する波長計の較正用に標準電波を定時発射する業務を、検見川送信所で開始しました。この標準電波の発射仕様は、1940年(昭和15年)にコールサインJJYの無線局として初めて官報に公示され、一般国民も広く利用できるようになりました。

検見川送信所から発射されていた当初のJJYは、周波数の基準のみの標準電波でしたが、戦後の1949年(昭和24年)に、我が国の時間を管理する東京天文台(東京・三鷹)に近い現在の小金井市に送信所を移転し、標準電波に時刻信号も同時に載せて無線報時の機能を合わせ持たせ、今日の標準電波JJYの原形ができました。

当時の標準電波は、主に短波が使われていましたが、正確な周波数と時刻を全国に安定して届けるためには、周波数の低い長波のほうが有利であることがわかってきました。そのため1966年(昭和41年)に、NICTの前身である郵政省電波研究所が、現在と同じ長波(40kHz)による標準電波の実用化に向けた試験局(コールサインJG2AS)を、やはり検見川送信所(当時は電電公社が運営)に設置しました。つまり検見川送信所は、標準電波そのものの誕生の地であるのみならず、現在の電波時計に使われている「長波標準電波」の誕生の地でもあります。

●旧検見川送信所跡での記念局運用の実現に向けた経過

標準電波の発祥の地である検見川送信所において、標準電波JJYの開局75周年などを記念する8N100ICTを運用することは、記念局実行委員会の念願でした。検見川送信所は1979年(昭和54年)に廃止され、跡地は千葉市検見川稲毛土地区画整理事業用地の中に位置しています。同事業は、1985年(昭和60年度)から2029年(平成41年度)までという超長期の事業で、送信所の跡地は中学校用地として、NTTとの等価交換により現在は千葉市の所有地となっています。そこで記念局実行委員会の代表(JF3CGN)が、昨年10月14日に、まず千葉市教育委員会の窓口宛にコンタクトして、記念局運用の実現に向けた調整を開始しました。

社会情勢の変化により、送信所跡地における中学校の新設計画は消えましたが、1926年開局当時の旧局舎が現存していることから、教育委員会の中で文化財管理を担当する部署が引き続き同跡地に関わっており、それに同跡地の管理者である検見川稲毛土地区画整理事務所、そしてそれら関係課のとりまとめ役である総合政策局総合政策部政策企画課の計3部署が、調整相手となりました。

10月28日に3部署の担当者に千葉市役所に集まっていただき、実行委員会代表から、アマチュア無線とは、記念局とは、移動運用とは、標準電波とは、旧検見川送信所跡で移動運用する意義とは、などの基本的な説明を行って、理解を求めました。

11月5日には、土地区画整理事務所長の案内で3部署の担当者と共に現地を下見し、旧局舎の脇を運用場所の第1希望として、千葉市に検討いただくことにしました。

11月7日に政策企画課から回答があり、希望通り旧局舎の脇での運用が認められました。そして運用当日は千葉市の職員が終日立ち会うことになりました。実施許可を受けて、実行委員会は実施日程について以下の通り検討しました。

以上の要因に加えて、実行委員会関係者の都合を勘案した結果、4月25、26両日に実施することに決定し、3月23日に政策企画課の担当者に申告しました。4月25、26両日は、一般社団法人日本アマチュア無線連盟(JARL)が主催する4大国内コンテストの一つである「オールJAコンテスト」の開催日であり、記念局は現地からコンテストに参戦することで、より多くの相手局に対して「検見川発」の無線交信サービスができることを期待しました。

4月5日に、検見川5丁目自治会館において、千葉市職員の立ち会いの下で、検見川5丁目町内会の会長および役員に対して、記念局運用について説明する会を設けました。その結果、自治会館に予告ポスターを掲出して、町内会として承知している活動であることを示すことや、町内会長が4月8日に小学校入学式の来賓として出席する機会に、運用場所に隣接する住宅街の町内会長にも本計画を伝えること、などの便宜を図っていただけることになりました。

4月13日には、土地区画整理事務所長から政策企画課長あてに、正式に使用許可が下りました。正式許可を受けて実行委員会は、4月16日に運用予定を公表し、マスコミ関係およびJARL千葉県支部などに広報しました。運用予定は、アマチュア無線総合サイト「hamlife.jp」、一般財団法人テレコム先端技術研究支援センター(SCAT)のフォーラム、JARL千葉県支部Webサイト及び会員向けメーリングリスト、読売新聞千葉版4月24日付朝刊などで周知されました。

●運用当日の模様

初日の4月25日(土)は幸いに晴天に恵まれました。実行委員会メンバー並びに立ち会う千葉市職員は、9時頃に現地に集合しました。3台の車を旧局舎の脇に横付けし、各車を基台としてアンテナを設営しました。短波帯の7MHzワイヤーダイポールアンテナを1基、及び50/144/430MHz用グランドプレーンアンテナを2基設置し、テント(タープ)を2基設置して運用環境を整え、11時前には準備が完了し、発動発電機2台を稼動して無線運用を開始しました。初日のオペレータ(無線従事者)は4人(JH1JZZ、JM1LKI、JP1TVC、JF3CGN)でした。使用した無線機は、FT-897(短波、50W)、IC-275D(144MHz、50W)、IC-375(430MHz、10W)でした。

V/UHF帯グランドプレーンアンテナ7MHz帯ワイヤーダイポールアンテナ

初日は、地元のケーブルテレビ(J:COM千葉セントラル)、月刊FBニュース、電波タイムズなどが取材に訪れました。運用場所は土地区画整理事務所の管理区域のため、無線運用の現場は立入禁止の扱いで周知していましたが、新聞報道を読んだ近隣住民や千葉市周辺の無線家が相次いで来訪したため、立ち会っていた千葉市職員が立ち入りを個別に了解して対応するものとし、来訪者には実行委員会が昨年9月まで運用していた別の記念局8J10NICTのQSLカード(交信証)の余りを、来訪記念証として進呈することにしました。

「無線」、「廃墟」、「心霊スポット」の三拍子が揃っている旧検見川送信所跡における活動に、三才ブックスの月刊ラジオライフ誌は興味を持つだろうと期待していた通り、直近の幕張メッセにおいて同一日程で開催中だった「ニコニコ超会議2015」を取材した足で、同誌のライターが来訪しました。なお、この会議のために検見川・幕張近辺のホテルが軒並み満室になっていて、実行委員会メンバーは宿泊場所の確保に苦労しました。

7MHzから430MHz帯まで運用地元ケーブルテレビ局の取材

初日の運用が終わり撤収準備にかかりかけていた夕方に、近所に住む千葉市の職員がやってきて、明日、熊谷俊人千葉市長がここを視察することになった、との驚きの通達がありました。

2日目の26日(日)も晴天で、9時から再設営準備にかかり、10時には運用を再開しました。2日目にはオペレータが2名加わり(JG1NBV、JP7HLJ)、充実した体制でオールJAコンテストに参戦しました。

2日目の運用を始めて間もなく、地元・花見川区選出の市議会議員、三瓶輝枝氏が視察に訪れました。

11時30分頃に、熊谷俊人千葉市長が公用車で到着しました。37歳の熊谷市長はNTTコミュニケーションズの社員を経て千葉市長に就任し、検見川送信所の旧局舎の保存活用を決断した経緯があります。市長は中学生オペレータJH1JZZの運用に見入り、検見川送信所と標準電波の歴史的意義について、実行委員会代表から説明を受けました。

中学1年生(JH1JZZ)によるオペレートに見入る市長市長に説明する実行委員会代表(JF3CGN)自らのツイッターに載せる写真を撮る市長

旧局舎の保存活用について、市民の理解を得るためには、建物の文化財的価値を強調するだけでなく、無線ひいてはICTの歴史と現代の技術につながる場所という価値を、市民にアピールしていくべきという見解で、実行委員会代表と意気投合し、市長はその見解をツイッターでつぶやいていました。実行委員会代表は、市長に随行した教育委員会文化財課および政策企画課の幹部とも意見交換し、約10年後の検見川送信所開設100周年を見据えて、長期的展望で協力することを約束しました。

2日目は近隣の住民が初日以上に多数来訪し、親子連れに対して無線技術とアマチュア無線を紹介する機会が多々ありました。

オールJAコンテストに参戦近隣の住民が、夫婦連れや家族連れで、ひっきりなしに来訪しました

●おわりに

今回の移動運用では、2日間で約550局と交信でき、遠くはニュージーランドとも交信できました。標準電波JJY75周年、検見川送信所の偉業、そしてアマチュア無線の楽しさを伝えることができ、近隣の住民や無線家との交流も実現して、有意義な移動運用になりました。

最後に、運用にご協力いただいたアンリツ厚木アマチュア無線クラブ(JE1YEM)の各位、並びに実施のための事前調整と立ち会いを頂いた千葉市役所の関係者に、厚く御礼申し上げます。

(文責 JF3CGN)

【予告アナウンス】 【報道・報告】

J:COM千葉セントラル 「デイリー千葉」
送信所跡地でアマチュア無線記念局を運用
2015年4月27日放送


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