電波技術協会報 2018年7月号

電気試験所の偉業と平磯出張所<5>

〜ラジオ放送の立ち上げと短波の開拓、そして宇宙天気予報へ〜

滝澤 修
平磯出張所の短波長無線電話実験局(1928年)
平磯出張所の短波長無線電話実験局(1928年)

まえがき

 連載最終回の本号では、無線電話技術を大衆化したラジオ放送の開始に平磯出張所が果たした役割、未開拓電磁波領域であった短波帯の研究、そして短波研究の発展系として電波伝搬研究へシフトして宇宙天気予報業務に至った経緯などについて紹介する。

 

ラジオ放送の実現に向けた先導研究

 無線電話の技術が進んだ結果、一つの送信所から送られる無線電話の音声を、各家庭で直接受信して聴く「ブロードキャスト」が、1920年頃に米国などで始まった。日本ではブロードキャストに「放送」という訳語が充てられ、関東大震災から間もない1923年(大正12年)12月20日に「放送用私設無線電話規則」が制定されたことをきっかけに、平磯出張所ではラジオ放送技術に関する研究が集中的に実施された。

 1924年(大正13年)8月30日に、米国オークランドのGE社のラジオ放送局KGO(中波961.5kHz)が日本向けに3kWに増力して特別放送を行い、平磯出張所において丸毛登第2代所長(連載第3回参照)および高岸栄次郎技手(後の第3代所長)らにより受信に成功した[1](写真1,2)。これが初の太平洋横断無線電話となった。この時に、スーパーヘテロダイン式受信機が、外国の文献を参考にして日本で初めて試作された。同年11月に2回目の受信テストを行った際には、土星型原子モデルの提唱で知られる物理学界の重鎮・長岡半太郎博士が平磯出張所を訪れ、太平洋横断ラジオ放送受信の成功をその耳で確認した。

 平磯出張所の初代所長であった「TYKのK」北村政次郎(連載第3回参照)は、後にNHKになる日本最初の放送局JOAKに技師長として迎えられ、短期間の突貫工事を指揮し、当初予定の1925年(大正14年)3月1日から3週間遅れの同月22日に仮放送開始にこぎつけた(同日は放送記念日になった)。その後、愛宕山に移転して正式放送が始まったのは7月12日のことであった[2]。

KGO局を受信した丸毛登(右)と高岸栄次郎(左)
写真1 KGO局を受信した丸毛登(右)と高岸栄次郎(左)
1968年(昭和43年)6月14日
郵政省電波研究所平磯支所の新庁舎落成式典にて。(写真9参照)

KGO局の

受信風景(伝)
写真2 KGO局の 受信風景(伝)
新庁舎への移転時に発見された写真。大林写真館(那珂湊)の刻印があり、後日に撮った再現風景と考えられる。右は丸毛、左は高岸。

黎明期の短波無線電話を開拓

 ラジオ放送が始まって放送用無線電話の研究が一段落した平磯出張所では、海外との小電力長距離通信に適した短波無線電話の研究に重心を移した。JOAKの開局と同じ年の1925年(大正14年)に、電気試験所本部、平磯出張所、磯浜分室の3箇所にそれぞれ実験無線局JHAB、JHBB、JHCBを開局して短波無線電話送信機の開発を始め、1928年(昭和3年)に完成した[3][4]。口絵写真はJHBBの送話室で、JOAKやJOBK(大阪)が放送開始時に使用していたものと同じ、ダブルボタンマイクロホンが写っている。完成した送信機を使って、中波JOAKの番組を短波JHBBで海外に向けて再送信する実験を行い、その際に世界各国のアマチュア無線家から届いた受信レポート(QSLカード)がNICTに多数現存している[5]。この再送信実験は、後に始まる国際放送の先駆けといえよう。

 

電波伝搬研究の先駆け

 短波の伝搬は昼夜、季節、伝搬路、さらには宇宙現象によって大きく変動する。英国のアップルトン卿による電離層(E層、F層)の発見をきっかけとして、1929年(昭和4年)頃から、平磯出張所の研究の方向は、難波捷吾第4代所長の主導により、電波伝搬の観測・研究に大きく舵を切ることになる。

 平磯出張所における電離層観測は、日本最初の入射角測定に続いて、他所から発射された電波を受信することによる電離層高の時間変化の観測から始まった。そして1934年(昭和9年)からは、平磯出張所から観測用電波(イオノゾンデ)を発射し(写真3)、磯浜分室で受信して、E層で反射される限界周波数を定時に観測する業務が、難波所長の大学(京大)の後輩である前田憲一技師(後の第6代所長)らにより開始された(写真4)。

電離層測定用第1号送信機(1934年)
写真3 電離層測定用第1号送信機(1934年)

平磯における第2回逓信記念日式典で講演する前田憲一所長(1936年4月)
写真4 平磯における第2回逓信記念日式典で講演する前田憲一所長(1936年4月)

日本初の太陽電波観測から宇宙天気予報へ[6]

 戦後、平磯出張所は平磯電波観測所に衣替えし、無線通信の品質に影響を与える電波伝搬の異常を予報する「電波警報」に力を注ぐようになった。そして太陽地球間物理学の分野で日本初あるいは世界初の成果を挙げるようになった。

 第2次世界大戦中に発見された太陽電波を観測するため、1949年(昭和24年)に平磯電波観測所の川上謹之介らが東京天文台(三鷹)構内に200MHz受信機と回転式アンテナを設置し、日本で初めて太陽電波を実験的に確認した[7]。翌1950年には電気通信省電気通信研究所大井電波観測所(埼玉県)に60MHz回転式アンテナ(写真5)を仮設して、1ヶ月に渡り連続観測を行った[8]。やがて平磯電波観測所にも200MHzアンテナ(写真6)を常設して1952年(昭和27年)に観測を開始した。このように平磯電波観測所は我が国における太陽電波観測のパイオニアであるが、電波警報の精度向上を目的とする行政的な観測だったため、宇宙を純科学的に考察する電波天文学の分野において、平磯電波観測所の先駆性があまり認識されていないことは残念である。

大井電波観測所に仮設された60MHz太陽電波観測アンテナ(1950年)
写真5 大井電波観測所に仮設された60MHz太陽電波観測アンテナ(1950年)[8]

平磯電波観測所に設置された200MHz太陽電波観測アンテナ(1952年)
写真6 平磯電波観測所に設置された200MHz太陽電波観測アンテナ(1952年)

 平磯電波観測所では、太陽電波バーストのスペクトル特性を調べ、磁気嵐を引き起こす太陽フレアーが200MHzで強い電波バーストを伴っていることを、世界で初めて明らかにした。またマイクロ波バーストが、短波通信障害を引き起こすデリンジャー現象の発生と強い相関があることも明らかにした。さらに、太陽フレアー発生の後、磁気嵐の発生よりも数時間〜数十時間前に、極域に集中した強い電波吸収領域が発生する極冠吸収(Polar Cap Absorption)を、世界で初めて発見した。その発生機構として、太陽フレアーで発生した高エネルギー・プロトンが極冠に集中して降り込むためであることも明らかにした。

 これらの成果をもとに、1988年(昭和63年)から、電波警報を近代化した宇宙天気予報の業務が始まった。宇宙天気予報センターは2002年(平成14年)に平磯からNICT本部(小金井市)に移転して、現在に至っている。

 なお、平磯出張所の開設時から無線実験の対向局として重要な役割を担っていた磯浜分室は、1986年(昭和61年)に茨城県立児童センターこどもの城が拡張された際に、大洗町内に提供された代替地に移転し、移転先は「大洗テストフィールド」として、現在もNICTの研究観測業務に活用されている(写真7)。一方、磯浜分室の跡地であるこどもの城には、「無線研究発祥の地」の記念碑が立っている。

大正末頃の磯浜分室の実験無線局 磯浜分室の代替施設であるNICT大洗テストフィールド
写真7 大正末頃の磯浜分室の実験無線局(左)と、磯浜分室の代替施設であるNICT大洗テストフィールド(右)

各方面で活躍した平磯出張所の出身者

 平磯出張所は、通商産業省工業技術院電子技術総合研究所(現・産総研)の前身である電気試験所に所属する一支所として誕生し、戦後、電気通信省電気通信研究所(現・NTT研究開発センタ)に所属する電波観測所の時代を経て、郵政省電波研究所(現・NICT)に所属して現在まで存続していた。組織として産総研、NTT通研、NICTのそれぞれの歴史に登場してきたのみならず、出身者にまで視野を広げると、さらに広く産学公の機関に深く関わり、我が国の電波・無線技術分野の発展に足跡を残した施設であったことがわかる。

 JOAKを立ち上げた北村初代所長に続いて、丸毛第2代所長も日本放送協会に移り、JOBK技術部長、技術研究所第2部長、そして戦後には日本ビクター(株)技師長などを歴任し、ラジオ・テレビ技術の発展に尽くした。高岸第3代所長は、2社合併により発足して間もない安立電気(現・アンリツ株式会社)に移り、同社の初代技師長になった[8]。難波第4代所長は、国策会社の国際電気通信株式会社に移り、戦後に同社が逓信省への統合を経て国際電信電話株式会社(現・KDDI)として再発足した後に、同社の取締役そしてKDD研究所の初代所長を歴任し、KDDを退職後は財団法人日本情報処理開発センター(JIPDEC:現・一般財団法人日本情報経済社会推進協会)の初代会長を務めた。前田第6代所長(写真4)は、「TYKのY」横山英太郎(連載第3回参照)の後を継いで文部省電波物理研究所(NICTの前身の一つ)の所長に就任し、後に京大教授に転じて、松本紘理化学研究所理事長(前・京大総長)など、電波物理分野の多くの人材を育てた。

 英国マルコーニ社に出張し、フレミングの法則で知られるジョン・フレミングの前でTYK式無線電話機のデモを披露した土岐重助技工[10]は、北村所長の片腕として初期の平磯出張所で活躍した後にJOAKに移り、我が国の放送事業の立ち上げに尽力した。戦後、平磯出張所の近所に個人経営の土岐電気株式会社を設立し、ラジオ・船舶用の受信機・送信機の製造販売を行っていた。同社は現在も茨城県ひたちなか市内で営業中である。

 JHBBの送信機を開発した磯英治技手は、東工大の先輩である高岸所長に誘われて安立電気に移り[11]、同社の社長になって計測機器メーカーへの転換を果たした「アンリツ中興の祖」と言われている。

 戦後の平磯電波観測所において電離層および電波伝搬の研究に取り組んでいた大林辰蔵技官は、後に京大、東大、宇宙科学研究所の教授を歴任し、国産ロケット及び人工衛星の開発に足跡を残した。

おわりに

 2009年から無人の観測サイトになったNICT平磯太陽観測施設は、2016年(平成28年)9月に太陽観測業務を山川電波観測施設(鹿児島県)に移し、開設されて満102年になる同年12月をもって閉所された(写真8)。閉所式が挙行された会場は、ちょうど50年前の1968年(昭和43年)に竣工した庁舎で、その落成式には当時まだ健在だった平磯出張所草創期の所員が多数参列した(写真9)。平磯施設の歴史の半分を見守ってきたこの庁舎は、閉所に伴い、間もなく取り壊されることになっている。

NICT平磯太陽観測施設 閉所式
写真8  NICT平磯太陽観測施設 閉所式
2016年(平成28年)12月9日
ごく内輪の関係者のみで、しめやかに挙行された。  

郵政省電波研究所平磯支所 新庁舎落成式典
写真9  郵政省電波研究所平磯支所 新庁舎落成式典
1968年(昭和43年)6月14日
当時の若井登平磯支所長のほか、丸毛登(NHK、日本ビクター)、高岸栄次郎(アンリツ)、難波捷吾(KDD、JIPDEC)、前田憲一(京大)、河野哲夫(電波研究所)ら、戦前の歴代の平磯出張所長経験者が最前列にズラリと並んでいる。

 今はもう、草創期を知る元所員はいない。しかし、クラリネット奏者の北村英治氏(89歳)が今年4月に初めてこの庁舎を訪れ、父親の北村政次郎(後に政治郎)が初代所長を務めた施設に別れを告げたことは、歴史の締めくくりにふさわしいエピソードであった(写真10)。電子情報通信学会マイルストーン(連載第1回参照)の一つとして選定(写真11)された平磯出張所は、無線電話開発と電波伝搬研究の故郷として、その姿を消しても末永く記憶されて欲しいと願う。  ―完―

NICT平磯太陽観測施設を見納めに訪れた北村英治氏
写真10  NICT平磯太陽観測施設を見納めに訪れた北村英治氏
2018年(平成30年)4月13日
所長室に掲げられていた北村政次郎初代所長の肖像写真を手に。

電子情報通信学会マイルストーンの表彰楯
写真11 電子情報通信学会マイルストーンの表彰楯

謝辞

 本連載執筆にあたっては、多くの方々にご協力いただいた。特に、無人化後の平磯太陽観測施設において請負管理人として駐在し、閉所を見届けて今年1月に他界した、故・管野正行氏に対して、感謝と哀悼の意を捧げる。

参考文献

[1] 「日本無線史」, 第3巻, pp.68-70, 電波監理委員会, 1951年2月.
[2] 無線通信発明百周年記念行事実行委員会編, 「無線百話」, pp.150-154, クリエイトクルーズ, 1997年.
[3] 高岸栄次郎, 磯英治, 川添重義, 「短波長送信機の設計及其の試験成績 前篇 ―設計」, 電気試験所研究報告, Vol.243, 1928年12月.
[4] 高岸栄次郎,磯英治, 「短波長送信機の設計及其の試験成績 後篇 ―試験成績」, 電気試験所研究報告, Vol.246, 1929年1月.
[5] 丸橋克英, 「平磯無線の100年史 後編:電波警報から宇宙天気予報へ」, RFワールド, No.35, pp.131-143, CQ出版社, 2016年7月.
[6] 石黒正人, 「日本で最初の電波天文観測」, 国立天文台ニュース, No.287, pp.10-12, 2017年6月.
[7] 川上謹之介, 秋間浩, 「宇宙雑音に就いて ―主として太陽雑音の観測結果に就いて―」, 電波資料集, No.1, pp.153-172, 電波監理委員会中央電波観測所, 1951年3月.
[8] 「安立電気五十年史」, p.14, 安立電気株式会社, 1982年10月.
[9] 丸毛登, 「鳥潟博士の無線研究13年を思う」, 鳥潟博士と無線研究60年の歩み, pp.41-47, 鳥潟博士33回忌回想録刊行会, 1955年9月.
[10] 磯英治, 「社長の勉強」, pp.313-315, 1980年.
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