短波通信黎明期のアマチュア無線と逓信省

〜JARL90周年に寄せて〜

2016年6月19日

1926年6月(通説によると6月12日、IARUカレンダーによると6月28日)に日本アマチュア無線連盟(JARL)が結成されて、90年になります。「個人的な興味によって無線通信を行うために開設する無線局」(電波法)を運営するアマ無線家は、無線技術の草創期には、国や大学や軍などに所属するプロの無線技術者たちに先んじて、新しい発明や発見を行っていました。

また黎明期の我が国のアマ無線家は、取り締まる立場の逓信省と対立関係にあったとされていますが、ラジオ放送が始まったばかりの当時は、無線技術の普及を国民に促進する機運が逓信省側にあり、特に電気試験所では、アマ無線家の技術的先進性に敬意を払い、むしろ応援して活用する側面があったことは見逃せません。

本稿では、短波通信の黎明期にアマ無線家が果たした役割と、アマ無線家と逓信省の関係についての秘話をご紹介します。また逓信省岩槻受信所の短波実験局J1AAによる、日米最初の短波交信に成功した相手局について解説します。

※本稿は、2016年5月27日付け電波タイムズに寄稿した原稿を改稿したものです。

●短波帯の開拓

無線技術の初期におけるアマ無線家による代表的な成果として、3MHzから30MHzの短波帯による遠距離通信の成功が挙げられます。

1920年代まで、世界の実用無線局は、長中波帯を使った大出力局が主流でした。ところが1921年頃に、米国のアマ無線家らによって、短波帯を使えば小出力でも大陸間の長距離通信が可能なことが発見され、長中波帯の実用化に注力していた世界の専門家に大きな衝撃を与えました。この発見は我が国にも波紋を広げ、逓信省の中でも、通信設備の設計・建設・保守を担当する通信局工務課と、試験研究を担当する電気試験所とが、競い合って短波帯の開拓に着手しました。通信局工務課は、国際公衆通信用の大出力長波局を千葉市検見川(送信所)と埼玉県岩槻(受信所)に建設していた最中に、稲田三之助課長の指示によって、岩槻受信所に短波実験局J1AAを設け、建設工事の合間に通信実験を行っていました。J1AAの最大の成果は、1925年に我が国で初めて海外との短波交信に成功したことです。

一方、電気試験所平磯出張所(現・NICT平磯太陽観測施設)でも、世界各地から発射される短波の試験電波を各季節にわたって連続的に受信する電波伝搬研究を、1925年から進めていたほか、送信機を自作して実験局JHBBを開設し、国内各地に可搬型受信機を運んで、電波伝搬実験を行っていました。そして同年から足かけ4年かけて、本格的な短波送信機の開発を進め、開発の途上で世界に向けて送信実験を繰り返していました。

●当時のアマ無線と逓信省

官設局とアマ無線局が交信することなど、今では考えられないことですが、J1AAもJHBBも、アマ無線家を相手方として短波通信実験を行っていました。たとえばJHBBによる送信実験の相手局の多くは、海外のアマ無線家であったことが、NICT平磯太陽観測施設に約80通現存する当時のQSLカード(交信証)から判明しています。これらのQSLカードの中には、JARL創立の功労者であった笠原功一氏(3AA、JXIX)あてに海外から届いて平磯に転送されてきたものが何枚か存在します。また、学生時代にアマ無線家としてJARLの創立に加わった仙波猛氏(1TS)と磯英治氏(1SO)は、卒業後に電気試験所に就職し、後にアンリツの社長になる磯英治技手は、平磯出張所でJHBBの送信機の開発に従事していました。

平磯出張所JHBBの送話室のコールサインプレートには、平磯・日本を意味するエスペラント語「HIRAISO JAPANUJO」と大書されていました(写真)。前述の仙波猛技師は熱心なエスペラント語信奉者で、同氏の熱望により創立当時のJARLは名称や機関誌の題字などが英語でなくエスペラント語表記だったことが知られており、このJHBBのコールサインプレートも同じ影響下で作られたものと推測されます。

JHBB送話室
平磯出張所の短波実験局JHBBの送話室
東京放送局JOAKや大阪放送局JOBKの開局時に使用されていたものと同じダブルボタン・マイクロホンが見えます。

このように当時は、逓信省の内部にもアマ無線家が深く入り込んで、官民一体で短波帯の開拓に邁進していた時代といえるでしょう。

●日米最初の短波交信の相手局は?

岩槻受信所J1AAが我が国で初めて短波により海外と交信した相手局は、米国のアマ無線局6RWであったことが、電波監理委員会が1951年に刊行した「日本無線史」第1巻や、JARLが50周年を記念して1976年に刊行した「アマチュア無線のあゆみ」などに記載され、今日の通説になっています。しかし、交信成功当時の官報(1925年4月15日付)、新聞記事(時事新報1925年4月10日付)、学術論文(中上豊吉, 小野孝, 穴澤忠平,“短波長と通信可能時間及通達距離との関係に就て”, 電気学会雑誌, Vol.46, No.456, pp.695-710, 1926年7月.)などには、初交信の相手局として、米国のアマ無線家フランク・マシック氏(6BBQ)であったことが明記されています。同氏によるJ1AAとの日米初交信のQSLカードは、残念ながら現在は行方不明ですが、同氏が約1年後に、平磯出張所JHBBと交信した際のQSLカードは、NICTに現存しています(写真)。

6BBQのQSLカード
岩槻受信所J1AAが我が国で初めて短波により海外と交信した相手局6BBQフランク・マシック氏のQSLカード(NICT所蔵)
この写真はJ1AAによる初成功の約1年後に平磯出張所JHBBが同氏と短波で交信した際に受け取ったものです。
J1AAが同氏から受け取ったQSLカードも、これと同じデザインであったものと推測されます。

J1AAはアマ無線局ではありませんでしたが、我が国のアマ無線の歴史を語る際に同局の功績には必ず触れられるため、短波初交信の相手局という重要な情報に関する近年の誤りを、本稿の場を借りて訂正しておきたいと思います。

●おわりに

本稿の執筆に当たり、まえさきひろし氏が公開しているウェブサイトを参考にさせていただいたことに感謝いたします。

◆関連資料

(文責:JF3CGN)

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